AS IT BEGAN

QUEEN SOUNDとの出会い

1974年、当時中学一年生だった私には、一つ年上の姉がいた。
姉は洋楽が好きで、毎日いろいろな曲が姉の部屋から聞こえていた。 時には嫌いな曲もあったけれど、ほとんどの曲は“感じの良い曲だな”と思いながら聞いていた。 ただ、私には誰の曲なのか、何という曲なのか、そういうことには全く興味がなかった。

その年の夏の終わりのこと。
一枚のレコード・ジャケットを私の前に差し出して、姉はこう言った。
「ねぇ、この4人の中で、誰が男で誰が女だと思う?」
こういった質問をされると未だにワクワクしてしまう性質の私はジャケットを姉からふんだくるように奪い取り、しげしげと眺めた。
真っ暗な中に4人の顔がぼぉっと浮かび上がっていて、しかも全員髪の毛が長い・・さんざん考えた挙げ句、
「うーん・・・男ひとりに、女ふたりに・・・この人オカマ?」

注(男=Brian,女=Roger,John,オカマ=言わずと知れたFreddie)
「ふっふっふ、なんと全員男だよぉ!」姉は勝ち誇ったような表情で、再び私からレコード・ジャケットを取り上げ、 まるで『ジャーン!』という効果音を伴うかのようにジャケットの内側を私に向けて開いた。
真っ白なバックに真っ白の衣装をまとった奇妙な4人を見たときの私の正直な感想は・・・
なもの見てしまった」だった。
ただ、フレディの目の力強さだけは強く印象に残った。
姉は「びっくりするのはまだまだこれからよ」と言って、そのレコードをかけてくれた。
針を落としたのは、「Side Black」
頭の中で、ひとつの映画が作られていくように鮮明な画面が次々に流れてくる。 その面白さに私は針が上がるまで微動だにしなかった。
私とQUEEN SOUNDとの最初の出会い、それがセカンド・アルバム「Side Black」でした。

1974年、冬
ファースト・アルバムとメンバーについて。

順番としては逆になってしまったけれど、セカンド・アルバムをすっかり気に入った私は、 すぐにファースト・アルバムを買った。つまり初めて自分で買ったクイーンのレコードは「ファースト・アルバム」という事になる。
ファースト・アルバムには、セカンド・アルバムのような物語的空想が出来る曲は少なく感じたけれど、 神秘的な歌詞と、やっぱりフレディーの「声」そのものに強く惹かれた。なかでも現在にいたるまで私の一番のお気に入りの曲となったのが、 “DOING ALL RIGHT”この曲は正確に言えば、クイーンの前身バンド「SMILE」の曲だけど、今でもこの曲を聴くと、 初めて聴いた時のあの頃の自分に戻っていくような不思議な感覚がやってくる。多分私自身の「特別な曲」として、永遠にこの曲は 私の中に存在するでしょう。

ここまでくると、さすがにメンバーとか歌詞に興味が湧いてきて、ライナー・ノーツなんぞを読み始めるようになっていた。
レコード・ジャケットの印象はセカンドの時と比べてずいぶんとカッコイイ。裏ジャケットをよーく見ると、 ブロンドの男性がこりゃまたハンサム!名前は「ロジャー・テイラー」うふっ♪ なんていい男! しかし、一番ひ弱そうにみえるのにドラマーなんて…
名前だけで言えば、一番カッコイイと思ったのが「フレディ・マーキュリー」マーキュリー = 水星かぁ…なるほど、 どことなく宇宙っぽい声してる(・・ってどんな声じゃ!)それに今まで聴いてきた洋楽のなかで一番覚えやすいボーカルだと感じた。 独特の声、独特の歌い方、独特の顔、独特の歯・・は!?(すごすぎるぅ)
アフリカ、ザンジバル生まれと書いてあったので、思わず世界地図をひっぱりだしてしまった私でした。

楽器の事は詳しくはないけれど、ギターの音もこれまで聴いてきたギターとは全く違うって事くらいは判った。
“これってホントにギターの音なのかな?”という疑問が湧いたくらい、その時代の他のギターの音色とは違って、 なんとなく乾いた感じのする音も新鮮に感じたしオーケストラの様な包み込まれる感じの不思議な音色も心地良かった。
そうそう、ギタリストの「ブライアン・メイ」も中々ハンサム!・・・ロジャーの次に ネ。
「ディーコン ジョン」とレコードの裏面及びライナー・ノーツに紹介・記載されてたベーシストの「ジョン・ディーコン」に対しては、 まったく何にも感想が浮かばなかった。“ふぅ〜ん”という感じ。でも「大学を首席で卒業」という紹介文は強く印象に残った。 それにメンバー全員、学歴が高いんだなぁ〜と、妙なところで感動した事は憶えている。

私はこうしてクイーンにハマり込んでいったけれど、1974年当時、九州の片田舎で暮らしていた私の回りには、 クイーンに興味があったり、それどころか、その存在を知っている友達すら、ひとりもいなかった。

1975年〜1979年の学生時代の私とクイーン
この時代、いろんな洋楽が全盛期で、この5年間が一番、 クイーンを密接に感じていた時期でもあります。なにせ、思春期で育ち盛りの自分と同じ様にクイーンが凄い勢いで成長していった時期ですから。 しかも、この当時の音楽雑誌『MUSIC LIFE』というのは、読者の大半がQUEENファンだったんじゃないかと思える程記事がてんこもりだった。 長い間、人気投票では一位を獲得していたし、それと共にこの雑誌では、どこか別格的な扱いを受けていた様にもみえた。 当時の編集長、東郷さんがいたからこそ! だとも思うけど。後、水上さん! この時代は、クイーンファンにとって『MUSIC LIFE』は命 でした。 ・・・だよね?

しかし75年4月には初来日も果たして 知名度も高くなったのに、何故か自分の回りには、ほとんどファンらしきファンはいなかった。 (田舎だったしねぇ)
クイーンというバンドの名前は聞いた事があっても音楽までは聴いた事がないという人ばかりで、そんな中私は無謀にも クイーン宣教師と化して毎日クラスの皆に紹介してまわっていました。
『MUSIC LIFE』のクイーンの切り抜きを下敷きに詰め込んで、曲もテープに録音して、給食の時間にかけさせてもらってました。が! ビジュアル意識の強い世代に、フレディのあのスタイルの写真見せたところで、“きゃーかっこいい!”なんて、誰一人言わない。 そればかりか、“アンタ、これのどこが いいの?”と、白い目で変人扱いされる始末。
言い返せなかったのは事実だけど、唯一、一般的な美形であるロジャーのカッコ良さには 同意してくれるものの、「ベイ・シティー・ローラーズ」と一緒にされてしまう事だけは許せなかった。 いわゆる“ミーハー・バンド”としてしかクイーンを認めてくれない事が、とても口惜しかったのだ。

それにこの時代、男性のクイーン・ファンなんて私の回りにはひとりもいなかったぞ!
“ツェッペリンこそがロックと言うものだ!”みたいな顔して・・わかってんだか、わかってないんだか、 わかってないような事言っちゃってて・・(ん!?)
今となっては信じられないような事だけど、発売当時の『華麗なるレース』のライナー・ノーツには、 大貫憲章さんが“ツェッペリン・ファン対クイーン・ファン”について大真面目に書いていた程、 自称=本格ロック・ファンは、クイーンの音楽性部分について、きちんと語ろうとはしていなかったし、 また彼らの言うところの“クイーン=女・子供の聴くバンド”として彼等の異常なまでの人気に嫉妬してました。
大貫氏は、モハメド・アリ対アントニオ猪木の対戦から“比較する事の意味の無さ”を説いてくれていましたが、 わざわざ音楽評論家が、そんな事をライナー・ノーツに書くくらい、“そんな事”は当時のクイーンファンの間でも大きな問題でした。

って事で、
私はここで敢えて当時の“自称=本格ロック・ファン”に言いたい!


お前ら、一体クイーンを今頃、どう思ってるんじゃぁーっ!!

だいたい、“本格ロック”って、なんじゃそりゃ!言うてみぃー!



ほいでもって、今頃になって

“やっぱ、クイーン・サウンドはサイコーだよなぁ〜”

な〜んて言おうもんなら・・・




ぶっ飛ばす!!




ぁ、えらそーな事言ってすいません。

でも この時代は、一人でも多くの人にクイーンの良さを知ってもらいたい、クイーンを聴いてもらいたいと私なりに強く望んでいました。

1980年〜1986年のクイーンと私

成人式を迎えると同時に、私もちょっとは女らしくなり(ちょっとだけね) クイーン宣教師も卒業した私は出来る限りの範囲内でクイーンのライブを観にいきました。他のバンドのライブにもよく行ってましたが、 クイーンは私の心の根底にいつもありました。
クイーンのライブで想う事は・・私の本音を言わせてもらうとすれば、
クイーンのライブは “聴く”より“観る”方が楽しい。私はライブ音源には全然興味がありません。 なぜなら私にとって、クイーンは“レコードで聴くサウンド”が一番心地良いからです。 ライブに行ってもメンバーのひとつひとつの動きに感動しながら、じっと観る事に集中してて、 音源がどうだったとか、演奏曲目の事などは全く記憶に残っていません。今度はどんな衣装かな? とか、今回のステージ照明ってどんなかな?と、 観る事にワクワクしていました。ただ演奏される曲によって観るメンバーは決まってましたけど。

1986年、クイーンのライブ活動は終止符を打つ事となったけど、
当時噂されていたフレディの病気を“ホントかもしれない”って不安に思ったのがこの時期でした。

1987年〜1991年

私も結婚して子供が生まれて育児に追われる中、しばらくクイーンへの情熱もお休みしてて、 それでも懐かしむ様にクイーンを聴き、いつしか子供達にもクイーンを聴かせてみよう等と考えてたりしながら過ごしてた時期でした。
育児が 一段落した1991年に『インニュエンドウ』が発売されて嬉しかったと同時に、ビデオを見ていて涙が止まりませんでした。 フレディのあまりの変り様に不安は的中したと感じたからです。“THE SHOW MUST GO ON”を聴いていて、心が引き裂かれる思いになったのは私だけでしょうか?

そして、1991年11月24日
クイーンは もう終わった・・と思いました。

1992年〜現在まで

フレディが亡くなった後、クイーンファンの皆さんは一体どういう行動をとったのか 知りたい私なのですが・・、私自身は片っ端からクイーンに関係するものを買ったり集めたりしていました。この際なんでもいい って感じで。 そして毎日、これまでのアルバムを引っ張り出してきては、一日中クイーンを聴いてました。
でもフレディが亡くなった後で「伝説の人」とか「偉大な」とか称えられる事に対して、どうも納得がいきませんでした。 亡くなる前からフレディは偉大だったではないか!少なくとも74年のセカンド・アルバムを聞いた時からフレディは偉大だと、 私は思っていました。亡くなってから認められる事に対して私は腹が立ったりもしました。
余談ですが・・・"フレディ先生"って言うのは、いつからそんな風に呼ぶようになったのか、なんでそんな呼び方するのか、 教えて頂きたいものです。

子供達が 大きくなった現在、我が家ではほとんど毎日の様にクイーンの曲を流しているのですが、 特に下の子(9歳)はとても興味を持って、いろいろ訊いてきます。鼻歌まじりに 踊りながら聴いてる我が子を見てると、 とても微笑ましくなります。自分の希望でもある、クイーンを次世代に受けついでいく事が出来そうな予感がするからです。
去年の事ですが、私と下の子の会話でのエピソードです。

ある日、私は『オペラ座の夜』をずっと聴いていました。
娘のお気に入りの曲“マイ・ベスト・フレンド”が流れてきて、いつものようにそれに合わせて鼻歌で踊りながら私に聞いてきました
娘「お母さんって、いつからクイーンを聴いてたの?」
私「中学1年生から、ずっとだよ」
娘「 ええっ!それじゃぁ、大昔じゃん!」
私・・苦笑
娘「そんな大昔からクイーンっているんだぁ〜 ねぇ、今でもいるの?」
私「うーん、歌を歌ってる人が死んじゃったから、もぅいないかなぁ」
娘 ちょっと驚いた様子で「え〜っ!死んじゃったの?なんで?」
私「病気でだよ」
しばしの沈黙の後、娘は再びにっこりと微笑んで、こう言いました・・
「じゃぁ、私とお母さんが聴いてるこの曲を、死んじゃったその人も天国で一緒に聴いてるよね」と。
私は娘の何気ないこの言葉に、しばらく忙しくしてた手を止めて感動してしまいました。

1974年から1991年までの17年間はクイーンと共に成長してきた私の一生の宝物
それは今後、消え去る事も忘れ去る事もない。
時は違っても、同じクイーンの曲を聴く事が出来るこの幸せ。
「QUEEN」は永遠に聴き継がれていく・・

あとがき

クイーンはフレディが亡くなった時点で終わったと思ってるのは私だけではないと想います。 クイーンは4人揃っててクイーンだから。 でもだからと言って、“3人になったんだから、クイーンと名乗るのは絶対許せない”なんて 思うファンがいる事はとても悲しいです。“そんな事どうだっていいじゃない”と言いたい。
3人がまだ元気で、なんらかの音楽活動をしている事を、まず最初に喜びたいから。
残った3人にとって、フレディを亡くした悲しみは、他の誰よりも辛いと思うから。
それに、フレディが天国で3人の事を応援してない訳がない・・・

名義なんて、どうだっていい事。

...Anyway the wind blows...


私事で恐縮ですが・・
1997年11月24日、奇しくもフレディと同じ命日に私の姉が他界しました。
姉が悪戯に言ったあの一言がなかったら
私はクイーンと出会っていなかったでしょう。
私の一番のお気に入り『セカンド・アルバム』は私にとって、
一生忘れられないものとなってしまいました。

このページを天国にいる母と姉が懐かしみながら、
笑いながら読んでくれている事を願って・・・。

最愛の母と、クイーンと私を巡り会わせてくれた姉に、感謝。