私の体験談より〜雨の日の自転車事故

梅雨の時期になると、片手で傘をさしながら自転車に乗ってる人をよく見かけます。そうすると毎回思い出すのが、 今から20年以上前の自分です・・・。
自転車を乗り回すのが大好きな私は4キロ先の高校に通学する為、自転車通学を選びました。 しかしその自転車は中学入学時にお祝いで買ってもらったもので、その時点で前輪ブレーキが壊れていましたが修理にも出さず、構わず乗ってました。 それに余程のドシャ降りでない限り多少の雨でも自転車通学を強行していました。 (ちなみに、その頃の自分は4キロの道程を自転車で7分という記録を出してまして、アホな事にいつもその記録更新を狙ってました)

高校1年の梅雨に入ったある雨の日の朝・・傘をさして、いつもの様に時分ジャストにスタート。
まず最初に下り坂に入る。下り降りてすぐに急カーブになっているが、ブレーキはかけずに足でバランスをとりながらスピードダウンしないで曲がる。 (よい子は真似しない様に) それから平坦な路を時計の秒針と競争しながらスピードアップ。しばらくすると、“太股が張る坂”と勝手に命名した登り坂にさしかかる。 私は傘を左アゴで支え、サドルから腰を浮かして立ち、前傾姿勢でペダルを踏み込む。
踏み切りを渡り、隣り町に入った所でまた平坦な路になる。そこからは傘を右手に持ち、また猛ダッシュ! 私はこの時、雨が目に入らない様に傘を前方に45度傾けた。この時の前方視界は傘だけ。そして視線は前輪の先。 (ちなみにその路に歩道は無く、車道に中央線だけがあるバス通り)

さて、その平坦な路をぶっ飛ばしていた私はフッと何かを直感した。と同時に傘を直角にあげた瞬間、 目の前にセダンの車が!・・あっ!と思った次の瞬間、強い衝撃と共に私の身体はそのセダンを飛び越えていた。
ズザザザァー・・・。弁慶の泣き所と言われる膝下と、手の平で自分の身体を止めた私は、座り込んだ姿勢で2.3メートル後方を向いた。 さっき飛び越えたセダンの後方左に、チラリと自転車の前輪が異様な形で見えた。 私はスッと立ち上がり、そのセダンに近づいていった。そこには、セダン後方のバンパーに食込む自転車の前輪と ハンドルがグニャリと曲がった無残な姿が・・・(停車してある車でこの衝撃である!)

真っ青になりその場に立ち尽くす私に声をかける人がいた。声のする方を向くと、その事故現場はちょうどバス停の前で、 通勤の人たちが軒下に列を成していたのである。そこには15人くらいの人が居た。皆が手で口を覆い、まん丸した目で私を見ていた。
「その車は、ここの家のよ、早く言ってきなさい」と、その列の中の一人のおばさんが大きな声で言った。 ここの家と言って指した先は、バス停で雨をしのいでいる軒下のお家である。

私は言われたまま、そのお家に入り、「すみませ〜ん・・」と呼んだ。 すると「ハーイ」と元気良くおばちゃんが出てきたが、私を見るなりその表情は一転した。「まぁ、一体どうしたの?アンタ、大丈夫?」と言った。
そう言われて私は初めて自分の現状に気が付いた・・・学生服のスカートはびしょびしょに濡れていてカーテンを引き裂いたみたいにビリビリに破けていた。 そして膝下からダラダラと血を流していた。手の平も同様に血が流れていて、おまけに無数の小石が擦り傷の中に入り込んでいた。 でも不思議と、痛いという意識はほとんど無かった。
私は「大丈夫です」と応えてから「すみません、電話を貸してください」と言って自宅に電話した。
母親「もしもし?」
私「あ、私だけど・・あの・・自転車で車にぶつかった・・」
このセリフしか言葉に出せず、母親の応答は叫びに近い声でなにやら言っていたが、次に私が応えたのは「○○バス停の前に居るから」だけだった。 それから10分もしない内に、何故か出勤したはずの父親が運転する車で両親が来た。(その10分の間におばちゃんは事故現場をじっくり見ていた)
駆けつけた母親は何度か深々と頭を下げながら、おばちゃんと何やら話している。私はその様子をただ黙って見ていたが、頭の中では何故か 「遅刻する・・どうしよう・・遅刻や・・」とばかり考えていた。
20分くらいして、現場検証しながらまだ何やら話ている母の後ろにいた父に「ごめん、学校に遅刻するから車で乗せてって」と小声で頼んだ。 父は病院に連れていくつもりだったらしいが、「遅刻するからいいよ・・」と私のアホな応えに、大丈夫か?という様な顔をしたが、車に乗せてくれた。 車の中では父も私も無言だった。

学校に着くと、既に1時限目が終っていて、私は部室に直行した。(新体操部に所属していて、部室にはいつも体育着を常備していた)
ボロボロのスカートを脱いでる時に膝下の血が流れ固まっている事に気が付いた。手の平の消毒も兼ねて、着替えた私が向かった先は保健室。
保健室のドアを開けるなり、「すみませ〜ん、消毒お願いしま〜す」と保健婦に言うと、心配そうにいろいろ聞いてきたが、 私は「自転車で転んでケガした」とだけ応えて、事故の部分は言わなかった。とにかく早くしないと2時限目が始まるからと手当てを急いでもらった。

保健婦さんの手当ては本当に手厚かった。手の平にはグルグルとテープが巻かれ、膝下はデカいガーゼと油紙がぺったり貼られ、 その上のテープもまたベタベタと貼られてしまった。膝下はジャージで隠れるものの、手の平はどうしようもなかったが、 そのまま2時限目を受けようと私は教室に走った。しかし2時限目は体育で、皆は既に体育館に移動していた後だった。 運の悪い事に、体育の授業中はジャージを脱いでブルマになるのである。・・・両足の傷が派手に目につく・・。
仕方なくジャージを脱いで体育館に向かった私。(ちなみに体育の先生は担任の先生でもあった)

体育館に入り、私はすぐ先生に報告した。
「すみません、ちょっとケガしてしまって保健室に行ってました」とだけ言い、何食わぬ顔して皆の中に入ろうとしたが、先生が 「オマエ、大丈夫か?」と言った。それは、その傷で今日のバスケをできるのか?と言う意味だろうと私は解釈して「ハイ大丈夫です、できます」と応えたが、 なんと今朝の事故が先生の耳には既に届いていたのだった。(母親が心配して学校に電話したらしい)

先生は私に、“傘をさしての自転車通学は危ない”という説教をしながらも、両手足の傷を心配してくれた。 そして「見学しててもいいぞ」と言ってくれたけど、私は全く支障はないからと応えてバスケを楽しんだ。しかもその日の部活もやった。 (ちなみに部活はレオタード姿なので、ケガの処置があまりにも目立ちすぎて逆に恥かしかった。部活の先生は「ったく、このアホが!」と 笑い飛ばしてくれやがったが、アホは当たってると思った)

部活が終り、バスで帰宅途中に初めて傷が痛み出した。それまでほとんど痛みを感じなかったのに、特に膝下の痛みはズキズキと頭まで痛み出した。 それは、事故の賠償金ってどれくらい支払うのかなぁって事と、もう新しい自転車は絶対買ってもらえないだろうなぁという思いからだった。
帰宅するなり、母親は傷が痕に残らないかどうかを心配してくれた。でも私はどの程度の賠償をしなくちゃいけないのかがすごく気になっていた。 しかし、母親はその事は何も心配はいらないからと言い、自転車はすぐには無理だけどなんとか用意すると言ってくれた。 私はその言葉で、一層傷が痛み出し、同時に深〜く反省した。

それから数週間後の真夏のある日、母親が「新しい自転車を見つけた!」と言ってきた。 バス通学に嫌気がさしてた自分は目の前がパッと明るくなり、「どこにあるの?」と聞くと、 「△△町の○○さんがタダで譲ってくれる事になったから」と言った。(ちなみに、△△町は自宅から二つの大きな山を超えた山奥である) 「その自転車は持ってきてもらえるの?」と訊くと、「何言ってんの、タダで譲ってもらうんだからこっちから取りに行くのよ」と言う。 でもうちの車は小型車で自転車を載せる事なんて不可能である。行きは車で行くとしても、帰りはどうやって?・・・
私「ねぇ、帰りはどうすんの?・・」
母「乗ってくればいいでしょーが」
私「誰が?」
母「アンタが!」

自転車を取りに行くその日は、(有り難い事に)朝からカンカン照りの酷暑になった。
父が運転する車に、水筒を持った母と私が乗り、行きはピクニック気分だったが、自転車を貰って帰る帰路は地獄だった。
山道はクネクネと蛇状の道なりが続き、登り坂は、“太股が張る坂”なんて生優しいもんじゃないっ!自転車を押して歩いた方が早い程の傾斜で、 “太股もカチコチに固まってしまう坂”だった。下り坂も、ずっとブレーキをかけたままで腕が疲れる。それでもなんとか1つ山を超えた。 その麓に両親が乗った車が止まっていた。母親は水筒を差し出して「山は、あともう1つだけだからネ」と言った。 私の太股は既にコチコチになっていて、水筒のコップを持つ手が小刻みに震える程息も荒かった。・・もはや、体力勝負というより根性しか必要ない!と思った。

結局半日かけて、照りつける太陽の下で汗だくになりながら、ギアも何も付いてない婦人用サイクルで私は山を2つ越え、 自転車を自宅の車庫に入れた時、もぅ一歩も歩けないほどに足はパンパンになっていました。そんな苦労をして手に入れただけに、 私はその自転車を大切に大切に、大事に大〜事に愛用したのでした。

物の大切さを身を持って実感した私の貴重かつアホな体験です。“傘をさして自転車に乗る時は、前方をよく見て走行しましょう!”

BACK