新体操部

私は学生の時、新体操部に所属してました。
今では「新体操」と言えば詳しくは知らないまでも、大抵の人は名前だけでも耳にした事はあるかと思いますが、 私が新体操を始めたのは、1975年の事です。まだ「新体操」という言葉が耳慣れない頃であり、 そもそも自分もその時に初めて耳にしたのでした。

←下段一番左が私。(高1)
後ろの建物は練習場なんだけど、こうして見ると随分古くてボロっちいなぁ。


話は、私が中学2年生の4月からスタートします・・・

それまでバレー・ボール部とブラス・バンド部を経験していた私は、 他の部活動にも興味を示し始めていた。そんな矢先に、“女鬼教師”の異名を取る体育の植田先生から 突然呼び出された。そして鋭い眼差しで私を直視しながら先生はこう言った。
「オマエ今、何もやってないよな?、よしっ、明日から新体操の部員になれ!」と。
私:はぁ?・・。
体育は大好きな自分だったが、この先生は大の苦手だった。植田先生は誉めて育てる事は絶対しない。 とことん貶して罵倒して、それでも食いついてくる根性と精神を育てるという、昔のスポ根ものによくある、 精神力重視の育成を得意としていたからである。
聞き慣れない言葉と同時に、“新体操って何やんの?”という疑問が頭の中をかけめぐる。 それもそのはず、それまでこの学校に「新体操部」など存在していなかったわけで、植田先生が どこで仕入れてきたのか知らないが、自ら顧問コーチとなり発足させたのである。 つまり私はその第1期生!と言えば聞こえは良いが、実際は、やるやらないの私の意志など完全無視された 女鬼教師の生け贄第一号!だった。

翌日、"部員集め"をやらされた。
でも植田先生は(太ったヤツは駄目だとか言って)注文が多かったし それでなくても、「あの植田先生」が顧問なんて言ったら皆逃げてしまい全然集まらなかった。 しかし一週間後、直接先生が声掛けた(脅した)1年生2人と3年生3人が練習室に来ていた。 私はこの時ちょっと嬉しかったが、その5人の顔つきはなんとも暗かった。(それは当然と言えば当然だったが)

先生は「新体操」のしの字も知らない私達に詳しい説明もなく、いきなり練習を開始した。
元々新体操は主具(ボール、輪、こん棒、縄)を使って身体で美を表現するものではあるが、 当時はまだ主具など何一つ揃ってなかったし、その技に対しても何も誰も(先生さえも)詳しい知識は持っていなかった。 そんな中、植田先生が私達にやらせたかったのは、主具を使わない新体操の"基礎"と呼ばれるものだった。 しかも無謀にも、7月の郡大会に出場させたがった。それまで4ヶ月余りしかないのに・・。 ちなみに「新体操」を取り入れている中学校は、この時郡内では3校しかなく、私達の学校を入れて4校だった。

「基礎」は主具を持たない団体戦と言うか、ジャンプと柔軟を必要とした動きを6人編成で行う。 そしてその動きは6人が同じレベルに合わせなければならなかった。"基礎"の動きを全部覚えるのは簡単だったが、 6人全員の呼吸を合わせるのは非常に困難だった。身体や腕の傾斜角度が少しでも揃わなければ罵声が飛び、 動きを間違えれば、とことん貶される。 辞めたくても辞めたいと言えないし、練習を一日でも休もうものなら、悪意に満ちた皮肉が浴びせられる。 だから皆必死だったし、毎日涙をこらえながら練習してたし、それは苦痛以外のなにものでもなかった。

郡大会まであと半月と迫った頃、先生から皆にとって嬉しい報告が入る。
それはナント、植田先生の“おめでた”だった。身体付きはスリムなのに最近お腹だけ出てきてたので 変だなぁとは思っていたが、まさかお目出度とは・・!思いもよらなかったので皆もびっくりしていた。 先生は夏休み過ぎたら産休に入るので以後1年間は新しい先生が赴任し、その為大会後は個人の自由練習とする。 という内容だった。この時の皆の顔は嬉しさを堪えるのに必死の様相だった。 そしてその日から皆で(嬉々としながら)女鬼教師からの解放の日までの“カウントダウン”が始まった。

郡大会は隣り町で開催された。
競技出場校は4校。私たちの学校以外は当然1年以上の実績を持っていたし、 レオタード姿にも自信たっぷりの様子が伺え、即席で出場した私たちは、まるで借りてきた猫状態だった。 そんな私達の態度を見て、植田先生が一喝した、そしてこう言った。
「ミスしても構わないから自信を持て!やる前から結果を考えるんじゃない、とにかく自信持ってやれ!」と。 初めてだった、植田先生から励ます言葉を耳にしたのは。 皆も先生のその意外な言葉に驚いていたが、最初で最後の試合を悔いなくやろうと言い合った。
結果は3位に終った。実績のある1校を抜いた喜びもあったが、私達はこれまでの辛い練習に耐え抜いた事を 泣いて喜び合った。そして私はこの時、自分の中に何かを得た感じがした。それが何かは分からなかったけど、 確かに感じた。

夏休みが終り、新しい体育の先生が来た。
植田先生と同じ女性だったけど、その雰囲気と受ける印象は全然違っていた。 その後の新体操部の練習はマット運動が主となり、3年の先輩は勿論、1年の後輩達も練習を休みがちになり、 女の先生も見に来たり来なかったりして「新体操部」は名前だけの存在になっていった。私は2年生までは独りでも練習していたが 3年生になってからは、新体操部に所属しながらも、またブラス・バンド部に入った。ブラバンも楽しくはあったけど 何故か、あんなに辛いだけの練習の日々が懐かしく、また競技試合に出てみたいなと感じていた。

1977年、高校に入学。
私は迷わず新体操部に入部した。入学した高校の新体操部には輝かしいとは言えないまでも 実績がいくつもあった。部員は3年生が3人、2年生が8人、そして私達新入部員は当初17人もいた。 がしかし、いざ練習が始まると日毎に減っていった。早朝練習は4キロのマラソンで始り、 放課後の練習では先輩たちが練習場に入る前までに体育館の掃除と先輩たちの各タオルを洗って準備しておいてから みっちり3時間の練習で終る。勿論その後も先輩第一主義の儀礼(まぁ、体育会系のタテ社会によくあるヤツ)も当然こなす。
1ヶ月もしない内に、気が付けば新入部員は私ともう一人の2名だけとなった。 私達はお互い、「やめるなよ〜!」と笑いながら言い合っていたが、私には、あの植田先生の辛い練習に耐え抜いた自信が あったし、もう一度競技試合に出たいという強い願望があった。

練習が辛いと思った事はなかったが、二人が何かと比べられるのが嫌だった。
私はジャンプ力には自信があり得意だったが柔軟が苦手だった。一方、相方は柔軟な身体ではあったがジャンプ力が無かった。 それによって先輩たちから、お互いの苦手分野を比較して注意されていたし、私達が2名しかいない事で団体戦(6名)での出場は なくなり、個人戦のみの競技出場しかなかった為、その比較は長く続いた。
2名という事で個人戦の競技練習は、その名の通り孤独な戦いだった。中学の時の様に6人でいろんな事を分かち合う事も 出来ないし、12メートル四方のマットの上を独りで魅せる事に中々慣れないでいた。
また、1年の時の顧問の先生は部分々での身体の強化を中心とした練習が主で、技に対する指導は ほとんどなかったし、よく周りの皆が言う『頑張って!』というセリフを、先生もよく使っていた。 この時の自分にとって、『頑張って!』というセリフは、言う方は非常に簡単だけど、 言われた方は(自分には)、強いプレッシャーを感じてしまい、また先生に言われると突き放された様に感じて、 その年の初めての個人戦の結果は、50位以内にも入らなかった。

2年生に進級。
新入部員はまた10名以上入ってきたが、1ヶ月過ぎた頃になると半分以下に減っていた。 また新学期から顧問の先生が代り、新任の竹本先生が顧問となった。とても若い女の先生だったけど、 その表情はどことなくあの植田先生に似ていた。でも実際の指導はこれまでと全く違って画期的だった。
その頃はまだ新体操がオリンピック競技になる前で、世界選手権の競技テープを8ミリで見せてくれた。 私はこの時、ブラジルのある選手の技がとても気に入って、自分もやってみたいと強く感じた。 また、竹本先生は私の得意とするジャンプ力を最大限まで使った技をいくつか教えてくれたし、 『頑張って!』なんて一度も言わなかった。しかも2年の私達を比較する言葉もなかった。 それより先生は、私の事を名字ではなく名前で呼び始めた。それまでの個人戦で孤独を感じていた自分にとって、 相手が先生であっても、それは妙な連帯感を感じ、とても嬉しかった。 相変らず練習はキツくて厳しかったけど、私は竹本先生が大好きになっていた。
6月の高校総体では、飛び抜けて良い結果ではなかったけど30位以内にまであがった私は、 次なる競技試合に高い目標と強い闘争心を持つ事となった。

夏休みに入った。
去年までは学校に寝泊まりするだけの合宿練習だったが、竹本先生はナント 毎回の試合で上位に入ってる選手の高校と合同練習での合宿を決行。
その高校は電車で3時間強かかり、駅降りて見ると山の上にあった。しかもそこまでマラソンで行けとの事。 (ウソだろ!荷物重たいのに)そしてゼーゼー言いながら辿り着いた者から練習開始。 さすがに上位に入る選手達だけあって、あとに付いていくのがやっとのハードな練習ばっかりだった。 また、先生は私のジャンプ練習を体育館でさせなかった。ずっと砂場だったのだ。 (砂場でのジャンプほどキツイものはないよ〜)夕食さえも食べる元気がなくなる程ヘトヘトになっていた。
海に面したその高校での合宿は1週間の日程で終了した。その最終日の夜に後輩と二人で空を見上げた、 満天の星が輝いていて、それはまるで“よく頑張ったね”と言ってくれてる様な感じがした。 とても心安らぐシーンだったし、それは今でも忘れられない。

ここで一応、新体操についてザッと解説しておこう。
この年の個人試合での主具は「布」と「輪」で、団体は「ボール」と「輪」でした。
(ちなみに去年は「こん棒」と「縄」という様に毎年変る)
私が最も得意とする主具は「布/リボン」。その長さは6メートルあって、それが末尾まで動いていないと減点になるし 、小手先だけでやってると末尾に結び目が出来てしまい、これまた減点の対象となる。 苦手だったのは「輪/ループ」。見た目より結構重みがあるし、上に高く投げてキャッチし損なうと、 (こん棒より いくらかマシだが)非常に痛い。
競技では必ず左右の手を使う(主具を持ち変える)事も決められていて、その技には、A難度B難度C難度とあり、 当然ながらミスをしなくてもA難度だけでは高得点は出ない。
12メートル四方のマット上をフルに使った移動をしなくてはならず、1分以上3分以内で構成する。 (ほとんど、1分半から2分ちょっとぐらいが主であり、3分なんてのは滅多にない。1本の構成は 全力疾走するのと同じ体力を使います。だから3分間全力疾走なんて、無茶苦茶苦しいです。踊るだけだと思ってたら 大間違いでっせ!)
個人の構成は各自で考えて出来るだけ個性的な動きを取り入れます。その曲付けの方は、 専門のピアノ講師を呼び、練習を見ながら即興で弾いてもらい、ベストなものを譜面に起してそれを録音する。
練習時のレオタードは一括購入されて高校名が刺繍されているが、個人で使用するレオタードはパンフを見て 好きなデザインを選び、なおかつ、目立つ為にスパンコール等の装飾を付けたりする。 また、主具にも装飾する。装飾と言っても主具にはカラーのマジックペンを使って塗る。 これは視覚的要素を活用して、実際より早く回転している様に見せる為である。

さて、話を元に戻そう。2年生最後の個人戦は11月の県大会だった。
私は「輪」の構成の中に以前見たブラジルの選手がやってた技を取り入れた。 が、しかし一度練習で成功してても、自分のモノにするのは容易ではない。ましてや苦手な「輪」。 ケガもあったが、なんとか練習を重ねて、その構成に先生からOKサインをもらった。
結果は総合12位に入った。大した成績ではないにしろ、私はすごく満足していた。

その後、冬季練習に入った。
冬季練習は個々の体力作り期間だし、練習を休みがちになる者が多くなる。 でも私達2年二人はお互いを強く意識し合ってきたので、相手が休まなければ絶対休まなかったが、 ある日練習に出てきたのは私達二人だけの時があった。その時に竹本先生は早目に練習時間を切り上げ、 私達を教官室に呼び寄せて、こう言った。
「休みたいなら休んでもイイよ。でもな、覚えておけ!練習を1日休むと、まず身体がそれを思い知る。 2日休むと、その身体に自分が気づく。3日休むと、見てる相手にもそれが判る。」と。
私と相方はそれを聞いてお互いを見合ってニヤリとした。そしてその視線は竹本先生に戻り、 何も言葉は発しなかったけど、「絶対休まないぞ! コイツには絶対負けたくないから!」と宣言した様に感じた。 案の定、私も相方もその後の練習を休む事はなかったし、休みたいとも思わなかった。

3年生になると、6月の高校総体が最後の競技試合となり同時にそれで引退となる。 私はそれで総合6位に入り(ギリギリ入賞で)初めて賞状をもらった。(ちなみに相方は8位)

という事で、最後の試合で好成績を残せた事はとても嬉しかった。しかしそれも思い返せば、 女鬼教師と呼ばれた植田先生が突然声掛けてきた事が始りであり、お陰でもある。
なんとも辛い練習の日々からスタートしたけど、あれがあったからここまでやってこれたと思うし、 今考えると、あの郡大会に出た後に感じ得たものは、一つの達成感であったかも知れない、でもそれと同時に、 新体操に対する自我の目覚めと言うか、あの時に私の新体操に対する小さな芽が息づいた様な気がしてならない。

今現在でも私は「新体操」が好きだし踊る事は大好きです。頭だけで憶えたものは忘れ易いけれど、 身体に染み付いたものは何年経っても忘れられない。その証拠に、少し身体を動かしただけで、 あの日の「基礎」が蘇ってくる・・・。

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