母からの贈り物

Mikanが小さい頃、母は編み物教室の講師をしていました。
「編み物」と言っても色々ありますが、現在ではほとんど見かけない【家庭用編み機】です。
こういうヤツです⇒家庭用編み機の動画

母は元々、実家が床屋さんなので美容師の免許をもっていましたが、外で働くにはまだ姉も私も小さかったので、 家計を助ける為に、家の中で出来る仕事を!と考え、独学で家庭用編み機の講師免許を取得。 自宅の応接間を二間続きにして編み物教室を開きました。当時、多い時は毎日10人くらいの生徒さんがいました。

そんな母は手先が器用で、毛糸の手編みも上手くて、私と姉の衣類も小さい頃からほとんど手作りでした。
中でも強く記憶に残っているのは、小さくなったセーターをほどいて、それをヤカンの蒸気にあてながら、 かせくり機を使って、糸玉機に巻き取り、再びきれいな毛糸玉を作っていく光景です。たまに私の両腕が、かせくり機の代わりの時もありました。

※写真左:1978年の初詣にて。向かって左が私、右が姉。2人のショールと私の羽織は母の手作り。
※右写真:その羽織コートは家庭用編み機で作ってもらいました。今も現役です。


でも、そんな器用な母の娘である私と姉は、全く洋裁に関心を持たず、習おうともせず、学校の家庭科で縫製の宿題が出た時も 「お母さ〜ん、縫って〜!おねが〜い!」と頼み込んで、いつも全部縫ってもらってました。

そして、私が高校を卒業した1979年の春。
母から私と姉にそれぞれ1台ずつ、当時の最新式のポータブル電気ミシンを貰いました。 もちろん、その時代、母が使用していたのは、古い足踏みミシンであり、電気ミシンなんて、とても珍しいものでした。 しかし、私も姉も最初こそ、その電気ミシンをいろいろと眺めていましたが、当時の私たちには、豚に真珠。 猫に小判と同じであり、使うとしても、きっと他力本願になるのは間違いないと思ってました。

ところが、それから3年もしない内に、母が病死。
母は、亡くなる少し前に、「あのミシンは二人の嫁入り道具にしたかった」という事と、 「少ない掛け金を長年コツコツ積立ててやっと買ったもの」だという事を初めて話してくれました。
それだけに、その時からミシンはもう他力本願ではなく、自分で大切に使っていこうと心に決めたのでした。




※上写真:37年経った今現在も現役バリバリのミシン「ジャノメ・エクセル815」です。
37年間、修理に出した事も壊れた事も一度もありません。とても使いやすいミシンです。
ただ、本体は鉄なので、かなり重たいです。10キロ近くあると思う。



※上写真:ミシンのカバー。取っ手とサイドは本革。発売当時のお値段はなんと、158,000円!!
現在でもこの値段は簡単には手が出ません。


「母が出来たんなら、娘の自分にも出来るはず!」そう思って、独学でミシンの使い方を覚え始めたのが、結婚して子供が生まれてからでした。まずは簡単な子供服(サンドレスなど)から作り始めて、ファスナー付きのクッションカバー等、小物類、そして 子カバ達が幼稚園に入る頃には、園バックやシューズ入れ、コップ入れなど、色々作れるようになり、いつの日か自信も少しずつ持てるようになった。
そして今現在では、大好きなクイーンの大好きなコピーバンドのメンバーたちのステージ衣装を手がけています。


※上写真:ミシン作業はいつもパソコンを移動させてPCデスクでやってます。手前右はフットペダルです。

最近は針に糸を通す作業が大変な年齢になってしまったけれど、ミシンを使ってこれだけ自分の好きな事をやれるのは、 母が必死で積み立ててくれたお陰であり、母からの最後にして最高の贈り物をもらえた事にとても感謝している。


そうそう!数年前、孫たちが保育園に入る時もこのミシンが大活躍しました。
でもそれは、子カバからの「お母さん!バックや袋は保育園指定のサイズで作らないといけないから全部おねが〜い!」 という要請を受けての事でした。
ちなみに、子カバは結婚した時に自分でミシンを買って持っています。私のと違って、とても軽くて性能の良いコンピューターミシンを。 なのに、私に頼み込んでくる子カバ。そう!それは、まさに、昔の他力本願な自分と、そ〜っくり。
昔の自分と母の会話だけが、世代を超えて、受け継がれているのでした・・・トホホ。


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