2021年3月30日
朝10時過ぎ、家事が一段落した頃、突然スマホが鳴った。 電話に出ると相手は父の主治医だった。それまで父が入院している病院からの電話は何度かあったが主治医から直接は初めてだった。

「昨夜から突然、容態が急変しましてね」その一言で私は、とうとう来るべき時が来た!と思った。
「わかりました、遠方なので到着時間がハッキリした時にまた連絡します」そう言って急いで支度を始めた。 ちなみに、父が入院しているのは熊本市であり、私の家からは、どんなに早くても6時間以上はかかる。


そもそも父が入院したのは2020年12月15日。
家の中で転倒して腰を骨折、それと頭を強打して脳挫傷と急性硬膜下血腫を引き起こしたからだった。
骨折はボルトを入れて無事に手術を終えたが、頭だけは年齢的に手術しない方が良いとドクターに言われた。 既にその半年くらい前から認知症が始まっていただけに、今年1月に救急病院からリハビリ病院へと転院した時の父は、精神行動障害、見当識障害、摂食嚥下障害、栄養障害、 そして記憶障害もあった。
その時に、もう以前のように賃貸住宅での一人暮らしは不可能だと判断して、その退去手続きも含めて、2月の初めに父に会いに行った。 でもコロナ禍で面会は全面禁止。テレビ電話をすすめられて試したが父には難しかったようで、3分で終了。
残念に思いながら病院の玄関を出ると、頭上から私を呼ぶ声がした。
見上げると、看護師さんの計らいで、2階病棟の窓口に父を立たせてくれていた。私は思いっきり手を大きく振って、 「おとうさーん! ここよ〜」と叫んだら、看護師さんが父の耳元でそれを伝えてくれたのか、父も小さくだったけど手を振ってくれて、少しはにかんだ様な表情をしていた。 それは昔、照れくさい時に見せていた懐かしい表情に感じて、それだけの事なのに、なぜか涙がポロポロこぼれた。



母は50歳で亡くなった。胃がんだと判明した時は末期で余命半年と告げられた。 父はその悲しみに堪えきれなかったのだろう、一人で祖母の所に行ってしまい、私と姉だけが病院に残った。 その頃は本人に告知をする事はタブー視されていて、母に悟られないように嘘をつくのが一番苦しかった。その時私は19才。姉と交代で母に付き添った。
余命半年と言われたが、母は入退院を繰り返しながら半年以上頑張って生きた。でも最後は、故郷の福岡に「帰りたい帰りたい」と言い出して、 無理を言って転院させてもらったが、その翌日に亡くなった。だから父も私も姉も間に合わず、最後を看取る事ができなかった。

しかしそれからたった半年で父が再婚した。 私と姉はそれを責める事はしなかったが、その再婚相手が最低最悪だった。 父と絶縁させられて私たちとの連絡を一切断ち切った。勝手に実家を売って熊本市に引っ越し、その挙句、父のお金を搾り取って離婚した。 その間、姉が37歳で突然亡くなった。
姉には一人娘がいてこの時まだ小学生だったが、真っすぐに育ってくれて、 今では二人の子供を持つ立派なお母さんだ。義兄も再婚する事もなく、父に不義理をする事も無かった。

母と姉が亡くなり、父から見れば、残った家族は次女の私だけ。 だからか、それからよく私に電話してくるようになったし、父は私の事を「俺の一人娘」と呼ぶようになった。
しかし父は私の心の葛藤などはお構いなしだ。母が亡くなってから私がどんな人生を送ってきたか、姉の死をどうやって乗り越えてきたか・・・少しも聞いてくることはなかった。 それより父はいつも自分の事で精一杯だったから私はずっと聞き役だった。
ちなみに、私の娘たちは父の事を「お母さんのお父さん」と呼ぶ。娘たちは"おじいちゃん"として父と遊んだ経験が一度もないからだ。



2021年3月30日
病院に着いたのは夜9時を過ぎていた。玄関で(連絡を受けていた)警備員さんが病棟への行き方を教えてくれた。 父の病室は個室だった。私は入るなりすぐに父の耳元で「おとうさ〜ん!! きたよ〜」と言ったら、私が分かったのか、瞼を必死で開けようとした。 しかも酸素マスクが邪魔とばかりに何度か手で払いのけようとしたので、すぐその手を握って「いいよ、いいよ、お父さんが言いたい事はわかってるからね」と言ったら、 少し安心したようにまた眠った。

ずっと父に付いていたかったが、特別に面会が許可されているとは言え、コロナ感染予防のため30分以上は病室にいられなかったので、一旦ホテルに戻ることにした。 ホテルは病院からタクシーで5分くらいの所にある。何かあればすぐに駆けつけるつもりだったので、その日はずっと起きていた。

3月31日
ふと気が付くと、朝だった。病院からの連絡はない。なので8時半になるまで待って、こっちから電話して訊いてみた。すると、なんと父は持ち直したという・・・びっくり!!
そしてこの日、義兄と姪がお見舞いに来てくれた。父はこの時、持ち直したと言えど目は閉じたままだったが、姪が声を掛けた途端、いきなり目をキョロキョロさせて激しく反応した! それもそのはず、姪の声と喋り方は亡き姉にそっくり、というより瓜二つだからだ。きっと父は姉が会いにきてくれたと思ったのだろう。

1962年
1965年
1968年

4月1日
この日の午後、主治医の話しを聞きに病院に行った。父の容態を説明してくれたあと、主治医が「昨夜は処方した点滴が効いたみたいで、 もし何もしなかったら今生きていないですよ」と言った。私はお礼を言ってから、「まだ熊本に滞在しますので」と伝えた。

それからしばらく父の容態は血圧も酸素も安定していた。
しかし、やせ細った身体で言葉を発する力もなく、両腕には青黒い点滴の痕が無数にあって痛々しかった。
そんな状態を見ていたら、不思議な事に、昔の哀しかった記憶が薄れて、小さい頃に遊園地とかいろんな所に連れて行ってくれた父の良い所ばかりを思い出していた。
今の父には、もう本当に私ひとりしかいない、これが父にしてあげられる最後のチャンスだと思えば、宿泊費の5万や10万、大した事じゃない。 私は次の宿泊ホテルを探して予約した。

4月6日
熊本に来てちょうど一週間。この日の夕方4時半から主治医と話しをした。
内容は、今の父の状態からして、それまで胃ろうを断っていたけど気が変わって胃ろうを希望するご家族が少なくないので・・と、 私にもその確認を再度求めてきたのだ。
こんな状態であっても、一日でも長く生きていて欲しいと願う気持ちは分からなくもないけど、でも延ばすなら「健康な寿命」の方が良い。 私は「父の希望通り、自然な最後でお願いします」と答えた。

4月7日
ここにきて、これまでの疲れが一気に出たのか朝から酷い頭痛。でも頭痛薬を飲んで寝たら夕方にはすっかり治った。ホッとした。 明日は宿泊ホテルの移動日だ。面会はいつも午後からなのでチェックインの時間まで過ごせるカフェをネットで探した。

4月8日
祖父母と母のお墓がある父の故郷に行って動画を録ってこようと思い、日帰りで列車のチケットを予約した。
そしてその夕方、病院に行ったら、珍しく父が起きていた。
「明日、お父さんの故郷に行って写真撮ってきて見せてあげるね」とか、「何にも心配ないからね、全部お父さんの希望通りやってあげるからね」と話していたら、 突然、父が頭を起こすようにして、必死で何か言おうとした!! だけど父のこの身体では言葉を発するだけの体力もないし、完全に無理なはずだ。 でもそれでも父は渾身の力を振り絞るかのようにして、「あーっ、りがとぉ」とハッキリ言ったのだ!! こんな奇跡ってあるんだと思った。

4月9日
朝早くホテルを出発して熊本駅から特急電車に乗車。
朝10時過ぎには墓地に着いたものの、久しぶりで祖父母と母のお墓がどこだったか分からなかった。焦った。
でも不思議な事に、ふと目に入ったお墓がなんとなく明るく感じて、近づいていったら、それは祖母のお墓だった!( 案内してくれたのかも。)そこから祖父と曾祖父母、 そして母親のお墓も見つけた。
時折優しい風が吹いていた。
祖母の実家がある神社にも行きたかったが、時間なくてお昼過ぎには熊本に戻った。
そのまま病院に向かい、早速父に動画を見せたら、祖母のお墓が分かったのか、いきなり顔をクシャクシャにして泣いていた。

4月10日
昨日撮った動画をまた見せようと思って病室に入ったら、父の容態が明らかにこれまでとは違っていた。 酸素マスクが付けられていて、呼吸は苦しそうだった。
2.3日前に看護師さんに質問した事がある。「危篤状態の時の特徴的な様子ってありますか?」と。そしたら 「まず手が浮腫んで、下顎で呼吸するようになります」と答えてくれた。いま父はその言葉通りの呼吸をしている。 でもその下顎呼吸というのは、見ている側は辛そうに見えても本人は苦しくないらしい。

面会時間のタイムリミットが迫ってきた。
私が、「またすぐ来るからね」と言って、病室を出ようとした時、なんとなく呼ばれた気がして振り返ったら、 父の右手が少し浮き上がったような気がしたので、私は戻ってその右手を取り、握手をした。
それが、父との最後になった。

夕方6時、看護師からの連絡で再び病室に入った。
すると、それまで身体に付いてた点滴も酸素マスクも外されて、父は穏やかに眠っているようだった。 少しずつ少しずつ、灯が消え入りそうな感覚の中、ずっと父の寝顔を見つめていた。
主治医が瞳孔と心音を確認した後、腕時計を見て「18時30分、ご臨終です」と言った。


熊本の綺麗な空!

危篤だと言われてからの12日間は、本当に奇跡の連続だった。
中でも一番は、父が亡くなる前日に精一杯の力で言ってくれた「ありがとう」という言葉だ。 私にとってそれはとても大きな贈り物を貰った気がしたし、ほんの少し親孝行が出来た気がして、一生忘れる事のない父との最後の思い出になった。


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