2021年3月30日
しかしそれからたった半年で父が再婚した。
私と姉はそれを責める事はしなかったが、その再婚相手が最低最悪だった。
父と絶縁させられて私たちとの連絡を一切断ち切った。勝手に実家を売って熊本市に引っ越し、その挙句、父のお金を搾り取って離婚した。
その間、姉が37歳で突然亡くなった。
2021年3月30日
4月1日 この日の午後、主治医の話しを聞きに病院に行った。父の容態を説明してくれたあと、主治医が「昨夜は処方した点滴が効いたみたいで、 もし何もしなかったら今生きていないですよ」と言った。私はお礼を言ってから、「まだ熊本に滞在しますので」と伝えた。 それからしばらく父の容態は血圧も酸素も安定していた。 しかし、やせ細った身体で言葉を発する力もなく、両腕には青黒い点滴の痕が無数にあって痛々しかった。 そんな状態を見ていたら、不思議な事に、昔の哀しかった記憶が薄れて、小さい頃に遊園地とかいろんな所に連れて行ってくれた父の良い所ばかりを思い出していた。 今の父には、もう本当に私ひとりしかいない、これが父にしてあげられる最後のチャンスだと思えば、宿泊費の5万や10万、大した事じゃない。 私は次の宿泊ホテルを探して予約した。 4月6日 熊本に来てちょうど一週間。この日の夕方4時半から主治医と話しをした。 内容は、今の父の状態からして、それまで胃ろうを断っていたけど気が変わって胃ろうを希望するご家族が少なくないので・・と、 私にもその確認を再度求めてきたのだ。 こんな状態であっても、一日でも長く生きていて欲しいと願う気持ちは分からなくもないけど、でも延ばすなら「健康な寿命」の方が良い。 私は「父の希望通り、自然な最後でお願いします」と答えた。 4月7日 ここにきて、これまでの疲れが一気に出たのか朝から酷い頭痛。でも頭痛薬を飲んで寝たら夕方にはすっかり治った。ホッとした。 明日は宿泊ホテルの移動日だ。面会はいつも午後からなのでチェックインの時間まで過ごせるカフェをネットで探した。 4月8日 祖父母と母のお墓がある父の故郷に行って動画を録ってこようと思い、日帰りで列車のチケットを予約した。 そしてその夕方、病院に行ったら、珍しく父が起きていた。 「明日、お父さんの故郷に行って写真撮ってきて見せてあげるね」とか、「何にも心配ないからね、全部お父さんの希望通りやってあげるからね」と話していたら、 突然、父が頭を起こすようにして、必死で何か言おうとした!! だけど父のこの身体では言葉を発するだけの体力もないし、完全に無理なはずだ。 でもそれでも父は渾身の力を振り絞るかのようにして、「あーっ、りがとぉ」とハッキリ言ったのだ!! こんな奇跡ってあるんだと思った。 4月9日 朝早くホテルを出発して熊本駅から特急電車に乗車。 朝10時過ぎには墓地に着いたものの、久しぶりで祖父母と母のお墓がどこだったか分からなかった。焦った。 でも不思議な事に、ふと目に入ったお墓がなんとなく明るく感じて、近づいていったら、それは祖母のお墓だった!( 案内してくれたのかも。)そこから祖父と曾祖父母、 そして母親のお墓も見つけた。 時折優しい風が吹いていた。 祖母の実家がある神社にも行きたかったが、時間なくてお昼過ぎには熊本に戻った。 そのまま病院に向かい、早速父に動画を見せたら、祖母のお墓が分かったのか、いきなり顔をクシャクシャにして泣いていた。 4月10日 昨日撮った動画をまた見せようと思って病室に入ったら、父の容態が明らかにこれまでとは違っていた。 酸素マスクが付けられていて、呼吸は苦しそうだった。 2.3日前に看護師さんに質問した事がある。「危篤状態の時の特徴的な様子ってありますか?」と。そしたら 「まず手が浮腫んで、下顎で呼吸するようになります」と答えてくれた。いま父はその言葉通りの呼吸をしている。 でもその下顎呼吸というのは、見ている側は辛そうに見えても本人は苦しくないらしい。 面会時間のタイムリミットが迫ってきた。 私が、「またすぐ来るからね」と言って、病室を出ようとした時、なんとなく呼ばれた気がして振り返ったら、 父の右手が少し浮き上がったような気がしたので、私は戻ってその右手を取り、握手をした。 それが、父との最後になった。 夕方6時、看護師からの連絡で再び病室に入った。 すると、それまで身体に付いてた点滴も酸素マスクも外されて、父は穏やかに眠っているようだった。 少しずつ少しずつ、灯が消え入りそうな感覚の中、ずっと父の寝顔を見つめていた。 主治医が瞳孔と心音を確認した後、腕時計を見て「18時30分、ご臨終です」と言った。 熊本の綺麗な空! 危篤だと言われてからの12日間は、本当に奇跡の連続だった。 中でも一番は、父が亡くなる前日に精一杯の力で言ってくれた「ありがとう」という言葉だ。 私にとってそれはとても大きな贈り物を貰った気がしたし、ほんの少し親孝行が出来た気がして、一生忘れる事のない父との最後の思い出になった。
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