フレディとワーズワースが見た光景

 クイーンの実質的ラスト・アルバムとも言える『イニュエンドウ』を初めて聴いたとき、 何よりもフレディのヴォーカルとしての力量に改めて驚かされたのを思い出します。 中でも「イニュエンドウ」「ドント・トライ・ソー・ハード」「神々の民」、 そして今回のテーマに関係する「狂気への序曲」、 この4曲におけるヴォーカルは特筆ものではないでしょうか。 最初の3曲は高音・低音を巧みに使い分け、 なおかつ非常にパワフルです。 ところが「狂気への序曲は」はどうでしょう。 あのどこか不気味な歌い方。 ヴォーカルのみならず、詞、プロモーション・ビデオ、 全てに渡ってどこか退廃的な雰囲気が漂っています。
 
狂気への序曲(抜粋)    by QUEEN

千と一の黄色い水仙が
君の目の前で踊り出す
それは君に何かを言おうとしているのだろうか?
君は最後のネジをなくしてしまった
つまり盛りは過ぎたということだ
正直なところ君は何もわかっちゃいない
僕は少しずつ狂って行く
僕は少しずつ狂って行く
ついに来るべきものが来た・・・


 この曲(だけには限らないが)には、ひとつの大変印象的な言葉が登場します。 それは「daffodils(水仙)」です。 フレディがこの曲をどういう経緯で思い付き、そして書き上げたのかは定かではありませんが、 この歌詞とプロモーション・ビデオを見た瞬間、 私はあのワーズワースの詩「The Daffodils」をすぐに思い出しのでした・・・。
水仙    by William Wordsworth

谷を越え山を越えて空高く流れてゆく
白い一片の雲のように、私は独り悄然としてさまよっていた。
すると、全く突如として、目の前に花の群れが、
黄金色に輝く夥しい水仙の花の群れが、現われた。
湖の岸辺に沿い、樹々の緑に映え、そよ風に
吹かれながら、ゆらゆらと揺れ動き、躍っていたのだ。

夜空にかかる天の川に浮かぶ
きらめく星の群れのように、水仙の花はきれめなく、
入江を縁どるかのように、はてしもなく、
蜿蜒と一本の線となって続いていた。
一目見ただけで、ゆうに一万本はあったと思う、
それが皆顔をあげ、嬉々として躍っていたのだ。

入江の小波もそれに応じて躍ってはいたが、さすがの
きらめく小波でも、陽気さにかけては水仙には及ばなかった。
かくも歓喜に溢れた友だちに迎えられては、苟も
詩人たる者、陽気にならざるをえなかったのだ!
私は見た、眸をこらして見た、だがこの情景がどれほど豊かな
恩恵を自分にもたらしたかは、その時には気づかなかった。

というのは、その後、空しい思い、寂しい思いに
襲われて、私が長椅子に愁然として身を横たえているとき、
孤独の祝福であるわが内なる眼に、しばしば、
突然この時の情景が鮮やかに蘇るからだ。
そして、私の心はただひたすらに歓喜のうちに慄え、
水仙の花の群れと一緒になって躍り出すからだ。

(原題:The Daffodils/邦訳:平井正穂)


 この言葉は何を意味する・・・、というような推測はここでは行いませんが、 2つの詩にはいくつかの共通点が見られます。 まず“千と一”と“一万本”という数の差はあるにせよ、そのおびただしい数の水仙の群れが、 “目の前で躍り出す”という表現。 他にも“詩人たる者、陽気にならざるをえない”、 さらには“長椅子で身を横たえる”など、 ビデオを見ると余計にその共通点が浮き彫りになります。
 最後にもう一つ“水仙”に関連する詩をご紹介いたします。 同じくイギリス出身の17世紀の詩人ロバート・ヘリックによる次の詩です・・・。
水仙に    by Robert Herrick

美しい水仙よ! お前たちが慌ただしく
  去ってゆこうとしているのを見ていると、涙が出てくる。
太陽もやっと今昇ったばかりだし、
  真昼までにはまだ間がある。
   だから、待ってくれ、頼むから、
  せめて忙しげな太陽が
   大空を駆けてゆき、
  夕べの祈りの時がくるまで、待ってくれ。
そうしたら、お前たちと一緒に祈りをすませ、
  私たちも一緒に暗闇の中に消えてゆこうじゃないか。

私たちだって、お前たちと同じで、
  この世にいる時間は少ない、 −春も短いんだ。
生長するのも早いが萎れるのも早い、というのも、
 お前たちと、いや生きとし生けるものと、同じなんだ。
   私たちも死んでゆく、
  お前たちが刻々と死んでゆくのと同じように・・・・・・。
   そして、乾上がって消えてゆくのも、
  夏の通り雨と全く同じなんだ。
真珠のような朝露がいったん消えたら
  二度と見られなくなるのと全く同じなんだ!

(原題:To Daffodils/邦訳:平井正穂)


 この作品は、詩集『ヘスペリデス』の中の一篇ですが、 その主題は“今日という日を楽しめ”ということらしいです。 ですので、私は“死”がどうのという話をしたいわけではございません。 むしろ逆であります。 つまり、この詩人ヘリックは花の命の短さを嘆くと同時に、 花の、自然の、そして時間の美しさを知っているのです。 私たちクイーン・ファンが、モノクロ映像の中で、ひときわ鮮やかに輝く黄色の水仙の美しさを知っているように。 そしてフレディの美しさを知っているように。
 さあ、自然の美に感動しましょう!今日という日を楽しみましょう! あと1時間で明日になろうとも、その1時間を私のホームページで楽しみましょう! (^ ^