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『戦慄の王女』
日時: 2011/03/20 16:46
名前: 喜楽院

クイーン布教活動≪第22部≫『戦慄の王女』

投稿日:2011年 3月 5日



2011年3月8日(月曜日)/13時20分。
於:東京都千代田区富士見:喜楽院音楽大学/55年館1階501号大教室(600席)。
短期集中講義“教養課程単位取得必須科目”『クイーン総論』(4単位)。
講師:鯨岡教授(ロック学部クイーン研究室・室長)。


みなさん、こんにちは。
この『クイーン総論』も、今日で3回目の講義となります。
過去2回の講義では、この「クイーン総論」という学問に臨む心構え、
並びに講義を受ける際の準備方法、更には「クイーン」に関する基本的な知識を、
皆さんに確認して頂きました。
世界的メジャー・バンドである「クイーン」については、
巷の並みのクイーンファンあたりが足元にも及ばないほどの、
かなり深い造詣をお持ちでないと、この喜楽院音楽大学の入学審査の
一次試験にすら通過できないわけでして、そういう意味では、
今ここにおられる皆さんにしてみれば、今まで2回の講義の内容は、
ある意味「釈迦に説法」だったかも知れません。
しかしながら、今日からは一歩踏み込んで、クイーンの各「アルバム」について、
一作ずつ、基本的な成り立ち、存在意義を検証していく内容の講義となります。
ではまず、教科書の39ページを開いてください。

よろしいですか?。
さて、それでは1973年の7月に、クイーンの本国である英国で
リリースされたデビューアルバム、邦題として「戦慄の王女」という
ネーミングが付けられておりますが、この作品から講義を
スタートすることにいたしましょう。

さて、講義に入る前に、ひとつだけ皆さんに質問をさせて頂きます。
唐突ですが、「クイーン」のスタジオ録音盤全14枚のアルバムの中で
“ベスト・アルバム”は何でしょうか?。
これが質問です。
ここで言う“ベスト”とは、主観的見地からでなく、
客観的な見地からで、ということです。
これはどういう事かとわかり易く申しますとですね、
つまり「あなたがた個人の、好みで選択するベストアルバム」というではなく、
たとえば、世界中のクイーンファンの中から、アルバムすべてを
ある程度を聴きこんだ経験を持ち、クイーンに関してそこそこ以上の知識を持つ
老若男女一万人程度をランダムにピック・アップして、全アルバムの人気投票を
行って頂いたと仮定した場合に、どのアルバムが一番たくさんの票を集めるか?、
ということであります。

勝手な推測で申し訳ないのですが、恐らくは、クイーンとしては
2枚目のアルバムである「クイーンU」と、同じく4枚目の「オペラ座の夜」、
この2枚のアルバムに大量に票が集中することでしょう。
全体における有効票の9割ほどに到達するかもしれません。
何故、この2枚が、ほとんどすべてのクイーンファンから
絶大な支持を受けているかと申しますと、まず「クイーンU」ですが、
“サイド・ブラック”と称されるB面の頭から3曲、
メドレー形式をとるこのひとつの“組曲”が、
すべてのクイーンの楽曲において恐らくは1,2を争うであろう
極めて高い評価を得ていることに由来します。
加えて申し上げるなら、これほどの多くの人々に
愛されてきた名曲でありながら、過去に発行されたおびただしい数の、
クイーンの、およそ「ベストアルバム」と称する商品のタグイには、
ただの一度もピックアップされたことがない、という、
非常に数奇な運命・経過をたどってきました。
これはもう人為的な所作によるものではなく、この栄光の「3曲メドレー自身」が、
他のアルバムからベスト曲として安易に選出された非力な曲との同居を、
自らのプライドがそれを許すことが出来ずに、自身の意思を持って
長きに渡って拒否し続けてきた結果だとすら思っています。

「クイーンU」には、他にも「マーチ・オブ・ザ・ブラック・クイーン」や
「ファザー・トゥ・サン」という優れた楽曲も、用意されてはおります。
この2曲がそれぞれ、もし他のアルバムに収録されていたなら、
恐らくはそのアルバムの代表曲、もしくはそれに準ずる曲として
君臨していたことであろうことは、当然、容易に想像できます。

しかしながら、この極めて秀逸な“メドレー組曲”を前にしているため、
実力派2曲の有する“輝き”なるものは、その相当な割合を打ち消されてしまい、
一見、取るに足らない凡庸なものに成り下がってしまったかのように見えます。
この天下に冠たる「マーチ・オブ…」や「ファザー・トゥ…」を
してそうなのですから、これ以外の、セカンドアルバムの
あとの残りの曲については、もはや全く意味を成さないも同然かもしれません。
「単にただ存在しているだけ。」と申し上げても決して過言では無いくらい、
この栄光の“メドレー組曲3曲”の存在は、それくらい
際立って成り立っているのです。

次に「オペラ座の夜」です。
この「アルバム」は、クイーンのみならず、
1970年代前半から中盤にかけての、
世界のロック音楽を代表する一枚です。
かつて、日本在住のさる高名な「クイーン評論家」が、
このアルバムを『銀座の老舗一流百貨店が暮れに売り出す、
一式10万円を超える“超高級おせち三段重ね”』に
なぞらえたことがありましたが、まさに正鵠を射た例えであり、
「デス・オン・トゥ・レッグズ」から「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」に
至るまで、他に例を見ない純然たる豪華絢爛さが、まるで息苦しくなるほどに
隙間無く、隅々までくまなくギッシリと埋め尽くされているさまは、
もはや一介の芸術作品の域を超えています。
ここいら辺は、皆さんも百も承知であることでしょう。
では、この2作品のどちらがトップに立つのか?という話は、
現在に至るまで35年ほどの論議を要しておりますが、
いまだ、明確な決着はついておりません。

さて、話をすすめます。
では、この“王者”2枚に流石に大きく水をあけられることとは
思いますが、その次の座である“ランキング3位”に食い込む
アルバムはどれか?、という考察です。
その可能性が高いと思われる候補の筆頭として、
まずは3枚目の「シアー・ハート・アタック」が
挙げられることでしょう。
このアルバムは、三歳のお誕生日を迎えた子供が
生まれてからその日までの3年間に、お父さんとそのご両親、
更にはお母さんとそのご両親の、計6人から買い与えられた
大小すべての「おもちゃ」を床の上にぶちまけたような、
極めて色彩豊かで、幅広く多様なジャンルと深いフトコロを持った、
賑やかできらびやかな作品であります。

また「オペラ座の夜」のよく言えば“双子の兄弟”、
悪く言えば“二番煎じ”“二匹目のドジョウ”と形容される
5枚目「華麗なるレース」こそがベストアルバム候補、という可能性も、
ごくわずかにあるかも知れません。
ただ、これら2枚のアルバムの得票数を合算しても、
ぜいぜい全体の15%に届けば大健闘、現実的には10%にすら届かない、
と見るのが妥当なところかもしれません。
それほど、2枚目と4枚目の存在は強力で、他を圧倒するものなのです。

そもそも、クイーンの「ベスト」はどれになると予想しますか?と
問われて、3位以降をぶっちぎりで引き離してワン・ツー・フィニッシュを
飾るであろう「クイーンU」と「オペラ座の夜」、
この2作以外のアルバム名を回答するというのは、
何かしら少しだけユニークな感性・感覚をお持ちの方であり、
回答アルバム名が、更には「シアー・ハート・アタック」でも
「華麗なるレース」でもないとしたなら、
それはもう質問の趣旨を根本的に曲解しているか、
すでに質問に対して真面目に答えようとする姿勢を有していない、
という話になってしまうでしょう。

長いクイーンの歴史においても、「稀代の傑作」と称される
一連の素晴らしい作品は、このように2枚目から5枚目という
極めて短い期間の作品に集中してしまっているのです。
ここまで、このように考えて参りますと、じゃあ、なんだか
「蚊帳の外に置かれた」みたいな形になってしまっている、
一枚目の「戦慄の王女」はどうなのよ?ということになるわけです。
では、これより先は、「戦慄の王女」の収録曲を、
皆さんと一緒にひとつひとつ思い浮かべてみることに致しましょう。


以下に続く
メンテ

Page: 1 |

Re: 『戦慄の王女』 ( No.1 )
日時: 2011/03/20 16:45
名前: 喜楽院

続き>>



まずはA面収録の4曲。
・イントロを聴いてその斬新さに誰もが驚いた、
記念すべきクイーンの「ファースト・シングル」にふさわしい佳曲があります。
・続いて、前身バンド時代からの、彼らの定番・自信作があります。
・セカンドアルバムの中核曲「マーチ・オブ・ザ・ブラック・クイーン」の
ルーツ・源流とも言える、変化に富んだ大曲があります。
・そして、クイーンについて比較的理解が深い層からの、
絶大的・圧倒的な支持を欲しいままにしている稀代の名曲があります。
このように、「戦慄の王女」のA面は“完璧”です。
セカンドアルバムの「サイド・ブラック」、
サードアルバムの「A面」に匹敵する
クイーン屈指の、超強力な“サイド”と申し上げて良いでしょう。

では、B面に目を向けましょう。
・ファーストアルバムのみならず、初期クイーンの“顔”とも言える、
新人バンドのデビューアルバムの収録曲としては
常識破りの完成度を誇る有名曲があります。
・続いて、リード・ボーカルの神懸り的なファルセットと、
奇跡のような三部合唱コーラスが炸裂する曲があります。
・レッド・ツェッペリンの「ロックンロール」みたいな曲があります。
・発売当時においてすら「作りの古さ」にめまいを覚えた、
初期のT-REXみたいな、個人的にはあんまり好きじゃないけど、
大方のクイーンファンには何故か人気が高い、
一応メロディ・ラインはそこそこ綺麗なような気がする、
1975年4月放映の「スター千一夜」で紹介された曲、もあります。
・2011年3月3日の「特ダネ」で、SHM-CD「戦慄の王女」の
「リミテッド・エディション」に収録されるデモ版をちょこっと聴いたら、
大勢の者が感動のあまり滝のように涙を流し、更に大勢の者が
SHM−CDなんかさらさら購入するつもりは無かったけど、
手持ちのクイーンのCDを全部売却してSHM−CDに
買い直すことに決めた、という恐るべき曲があります。
・そしてB面ラストには、聴くたびに失笑しながら思わず「下手くそ!」と
つぶやいてしまう、どうしてこんなのが収録されてんだろうと
35年間毎度毎度不思議に思いながらも、ふと気がついたらいつのまにか
フェイドアウトのエンディングまで聴いてしまっているという
極めてミステリアスな曲までご丁寧に用意されています。
すみません、後半はつい興奮してしまいました。

このように、一曲一曲を単品として丁寧な吟味を重ねて参りますと、
この「戦慄の王女」というアルバムが、これ自体が所有しているなんだか
ボンヤリとしたトータル・イメージよりも、もっと良質でレベルの高い
一曲一曲で構成されていることが如実に判明されるわけであります。

しかしながら、話は戻りますが、初期のクイーン、いや、
もう少し範囲を広げて前期のクイーンの、
…ここでまた「前期」だの「後期」だのとかを持ち出しますと、
じゃあどこで前期と後期とを区切るんだい?という、いつもの、と言いますか、
定番の、ああでもない、こうでもないという議論になるのですが、
まあ、諸説ありますけれども、ここでは7枚目の『ジャズ』までを前期で、
8枚目の『ゲーム』以降を後期としましょう。

で、その『戦慄の王女』なんですけど、ベストアルバムの候補と成り得る
2枚目〜5枚目の4作品には、どうしてもかなわないわけなんです。
それ以降の6枚目の「世界に捧ぐ」や7枚目の「ジャズ」と
比較したとしても、残念ながら「戦慄の王女」はこの2作に対しても、
明確なアドバンテージを持っているとは言い難いでしょう。
『ファーストアルバム』という時期的・位置的に重要な存在価値はあっても、
アルバム単品の音楽的価値の見地から申し上げると、
この「戦慄の王女」が“前期クイーン”の作品内ランキングにおいて、
最下位、もしくはそれに準ずる位置から抜け出て、上位をうかがうというのは、
はなはだ困難であると考えてよろしいかと思います。

残念ではありますが、この「戦慄の王女」とはそういう存在なのです。

はい。ここまでで何か質問はありませんか?。
よろしいですか?。
では先に進みます。

しかしながら、この先、「戦慄の王女」の弁護をするわけではありませんが、
ここで言う「クイーン」の2枚目から7枚目までを
もう一度、考えてみましょう。
「戦慄の王女」に端を発して、9枚目「ホット・スペース」あたりまでの
「クイーン」のアルバムには、リッチー・ブラックモア大魔王が率いる
「レインボー」と同様に、『ハズレ』と評されるアルバムがまったく無く、
また、いわゆる“捨て曲らしい捨て曲”もほとんど見受けられない、
どれを購入しても『安全・安心・便利・快適』という作品しか存在しません。
極めて優秀かつ良心的な生産者・供給者であります。
要するに前期クイーンのアルバム作品群は、押しなべて図抜けた
傑作の集合体で固められているのです。
いうなれば、それら前期群とは一応、好勝負となるポジションにいる
「戦慄の王女」も、広義で言えば『名作』と言える存在なのです。
それが証拠に、次はこの「戦慄の王女」を、後期クイーンの作品群に
照らし合わせてみようじゃありませんか。

8枚目「ゲーム」、9枚目「ホットスペース」、この2作は先ほども述べた通り、
名盤たるゆえに、“前期”に属する1枚目から7枚目まで同様、捨て曲然とした
一見マヌケそうに見える曲を探し出すことは極めて困難です。
しかしながら、10枚目以降になると逆に、一転して今度は
マヌケではない曲を見つけ出す方が困難になってまいります。
10枚目以降の一枚一枚を「戦慄の王女」と比較検証して頂きますと、
「戦慄の王女」が持つアドバンテージがようやく明確な形となり、
目視できるまでに急激に浮上してくるのが、おわかり頂けることでしょう。

幸いなことに、この「戦慄の王女」とは、そういう存在なのです。

繰り返し述べさせて頂きますが、歴代クイーンのアルバムの中で、
商品として最も価値が高いのは、2枚目から5枚目の4枚です。
これらを一挙発売するにあたって、1枚目をないがしろにするわけには
いきません。
なので、極めて有効な“プラスアルファ”を1枚目に付属させ、
他の4枚並に商品価値を高めて、5枚一括で売り出すのは、
まったくもって理にかなった販売戦略と言わざるを得ません。
また、ベスト盤2枚に続いて、プロパーである主力の5枚を発売することで、
レコード会社自身の存在意義も満たせることでしょう。

しかしながら私は、この5枚のSHM−CDの音質が誰の耳にもおいても
既存のCDを圧倒していると明確に言い切れるものであって、
かつ、『リミテッド・エディション』に収録されるデモ音源が、
売る側および買う側双方の良心の呵責を誘発しない、価値のある、
優れた内容のものであったことによるセールスの大成功を収めない限り、
6枚目「世界に捧ぐ」以降の発売は、あまり意味をなさないものだと思います。
内容さえ伴っているのであれば、もちろん否定する理由は何もありません。

おっと、そろそろ時間となりました。
最後、脱線してしまいましたが、「クイーン」のスタジオ録音盤全般における、
1枚目の「戦慄の王女」の存在位置は、この通りです。
次回は、SHM−CD5枚発売の滑り出し状況を、リアルタイムに検証しつつ、
セカンドアルバムの「クイーンU」を、かなり深く掘り下げたいと思います。
いいですね?。天下の「クイーンU」ですよ。
申し上げるまでもなく、とにかく相当、難解な講義になりますので、
皆さん、今のうちにしっかり予習をなさってから臨んでくださいね。
はい、では終わりにします。
メンテ
Re: 『戦慄の王女』 ( No.2 )
日時: 2011/03/20 16:47
名前: K&K(Sweet)

投稿日:2011年 3月 8日



まず、アナログ世代の自分にとっては、『戦慄の王女』というと、
通称“赤盤”といわれるジャケットが根強く残っていて、“紫”ではなく、“赤”の方がしっくりきます。
つまり、日本盤LPレコードなんですが、
これがCD化されてから、「GREATEST HITS」の収録曲が英国盤と同じに統一されたのと同様に
『戦慄の王女』のジャケットも英国盤と同じ“紫”になってしまったのがとても残念に思っています。

その『戦慄の王女』日本盤LPレコードを私が手にしたのは、セカンドアルバムの後でした。


1974年の8月、
中学2年生のプログレ好きのKは、いつものように近所のレコード屋で
“洋楽新譜コーナー”を漁っていました。
すると、1枚の奇抜なジャケットが目に留まりました。
真っ暗な中に4人の顔だけが浮かんでいるようなそのジャケットに強い好奇心を持ったKは、
そのレコードをそこから引き出して手にとり、裏ジャケも確認。
その時に、帯の裏面を見て、
『戦慄の王女』というファーストアルバムの存在を知ります。
しかしそのレコード屋には『戦慄の王女』はどこにも見当たらなかったので、
仕方なくそのセカンドアルバムだけ買って帰りました。

Kはそのレコードは元より、ジャケットもとても気に入ったようで、
そのジャケットを手に持って、学年が1つ下の中学一年生の妹を呼びとめ、こう言いました。

「ねぇ、この4人の中で、誰が男で、誰が女だと思う?」と。

単純な妹はその一言で飛び付くようにKからそのジャケットを奪い取り、
しばらく真剣に考えていた妹でしたが、
「男1人に、両端の二人は女で・・この人、オカマ?」と、
妹はKの 思うツボ といった答えを出してきました。
Kが中ジャケットの白い4人の写真を見せて正解を教えると、
嫌そうな表情をした妹でしたが、
レコードを聴かせたら、それから一ヶ月も経たない内に
ちゃっかり自分でクイーンのファーストアルバムを買ってきていました。



ということで、
この単純な妹というのが今の私なんですが(^^;
この体験からして、「クイーンII」あっての『戦慄の王女』という感が強いです。
そこで、鯨岡教授の以下の講義内容ですが、

> で、その『戦慄の王女』なんですけど、ベストアルバムの候補と成り得る
> 2枚目〜5枚目の4作品には、どうしてもかなわないわけなんです。


ベストアルバムの候補には叶わない位置であるというのは(一応は)納得します。
が!しか〜し、ここで終わってはつまらない。^^;


> 唐突ですが、「クイーン」のスタジオ録音盤全14枚のアルバムの中で
> “ベスト・アルバム”は何でしょうか?。
> これが質問です。
> ここで言う“ベスト”とは、主観的見地からでなく、
> 客観的な見地からで、ということです。


客観的な見地から、ということで、アルバムの売り上げ枚数で調べてみました。
当時のアルバムチャートで言うと、日本で1位を獲得しているのは「華麗なるレース」と「世界に捧ぐ」です。
しかしCD化された(87年〜2005年までの日本盤CDの売り上げ枚数)のチャートを調べると
「オペラ座の夜」が1位、「世界に捧ぐ」が2位、そして「クイーンU」が3位となっていました。

当時のアルバムチャートで1位を獲得している「華麗なるレース」と「世界に捧ぐ」は
その時代の日本における、絶頂期とも言える“クイーン人気”が大きく関わっていると思います。
なので、鯨岡教授が挙げられた「オペラ座の夜」と「クイーンU」は
CD世代でのベストアルバム候補として一番近いのかなと思います。
ただ、アナログ世代でもCD世代でも売れている「世界に捧ぐ」のアルバムは、侮れないかもしれませんね。

まぁ、なんにしても、『戦慄の王女』はここでも蚊帳の外という感じですね・・
が!しか〜し、(←しつこい)
以前に、じろーさんのクイーン考察シリーズの返信にも書きましたが、
74年からのクイーンファンには“オペラ座で離れていったファン”がいました。

クイーンファンにしてみれば、ぃゃ、クイーンのファンでなくとも
「ボヘミアン・ラプソディ」という名曲に衝撃を受けた人は少なくないでしょう。
でも、誤解を恐れずに言うと、
それまでの『戦慄の王女』と『クイーンII』、そして『シアー・ハート・アタック』の
3枚のアルバムにはクイーンというバンドとしてのサウンドを楽しむ事ができていたのに
「オペラ座の夜」からはそれがなくなってしまった・・というのが正直なところです。
オペラ座以降、フレディ・マーキュリーの世界!というのがドンと前に出てきた感じで、
それまでとはガラリと変わってしまった。

とにかく、そういう事からもクイーンの初期3枚のアルバムには
それ以降のアルバムからは聴かれなくなったクイーンの良さ、
それ以降のアルバムからは消えていったクイーンの良さが詰まっていると思いますし、
それだけクイーンの初期3枚のアルバムはクイーンサウンドがすでに確立されていたのだと思います。


最後にひとつだけ、
『戦慄の王女』の最後のインスト曲が
『クイーンII』の最後の曲で完成形となって、その最後のメロディが
『シアー・ハート・アタック』の冒頭で流れてきた♪
  ↑
この事に初めて気が付いた時の当時の喜びって、大きかったですよね?
メンテ
Re: 『戦慄の王女』 ( No.3 )
日時: 2011/03/20 16:48
名前: さつき


投稿日:2011年 3月 8日


「戦慄の王女」、興味深いですね。
ジャケットは確かにLPでは濃いピンク、CDになったら紫っぽくなりましたね。
そもそも、なぜ邦題が「戦慄の女王」でなく「戦慄の王女」なのかもずっと疑問ですが。(^^ゞ

私自身は、電車に乗った時など、iPodでまず聞くのは最近はこのアルバムなんです。
で、たいてい20分〜30分ぐらいで降りてしまうので、いつもA面で終わってしまったりします。
だから、A面の4曲については詳しいですよ。(笑)

いつも感じているのは、デビュー直前の(ブート版)録音を聞くと、
同じ曲でもデビュー盤では非常に編曲・演奏が洗練されていることです。
曲自体は同じでも、デビュー前の録音では、悪く言えばアマチュアバンドに毛が生えた程度(?)なのに、
「戦慄の王女」版では、もう立派に「クイーンの音」が確立されていることです。
このあたり、当時の事情も全く知らないのでなんとも言えませんが、
当時のプロデューサーのロイ・トーマス・ベイカーの腕だとしたら、本当に大したものと思います。


このアルバムの中の曲で、個人的に最も注目するのは、3曲目の「グレイト・キング・ラット」です。
歌詞は和訳を見ても難解でよく分かりませんが、中世の放浪剣士の話なのでしょうか。
それに合わせたメロディと展開、編曲などは、クラシックの組曲の主題表現にも劣らない優れたものと思います。
特に後半のギターソロは、剣士が剣を交えて火花が散っているような光景がありありと思い浮かんで、見事の一言です。

この曲については、初めてこの曲を聴いて印象に残って以来、
特にこのギターソロの部分の弾きかたが全く分からず、ずっと謎のままでした。
それ以来何年か、いろいろ試行錯誤して自分なりにコピーをしてみたりしたのですが、どうもしっくりしません。
「自分のQ趣味のライフワークは、このソロを弾ききることだ」なんて思ったこともありましたが、
10年ほど前に、戦慄の王女の譜面集を入手して、あっさり解決してしまいました。(^^ゞ

で、それ以来10年余、未だにこのギターソロは難しくてうまく弾けませんね。(爆)

ファーストアルバムについての思い出雑感でした。
メンテ
「戦慄の王女」番外編“1973年のミュージック・ライフ誌” ( No.4 )
日時: 2011/03/20 16:50
名前: 喜楽院

投稿日:2011年 3月 1日


1973年の晩秋から初冬にかけての季節。
当時中学一年生だった私の、同級生である“M”が病気で入院した。
幼稚園から小学校までずっと仲の良い友達だった彼は、
非常に勉強の出来る奴で、また洋楽に関しての知識も
相当なものだったが、毎晩かなり遅くまで、好きな洋楽の
チェックを兼ねて、深夜放送を聴きながらの猛勉強を続けてきて、
挙句の果てに無理がたたり、腎臓だかどこかをやられたと
いうことでの入院だった。

その話を聞いた日の放課後、私は部活をさぼり、
「豪雪地帯」として名高いこの新潟県南西部特有の「鉛色」の空の下、
チャリにまたがり速攻で彼の入院する総合病院へ見舞いに行った。
外観上、Mは元気そうだった。
ただ、この入院がかなり長引きそうだということを、
すでに医師から告げられていたらしい彼は、
同時に意気消沈しているようにも見えた。

まずは、私は彼に手ぶらで来てしまったことをわびた。
「M、すまない。慌てて来たので、見舞いも何も持たないで
来てしまった。今度の土曜日の午後、また見舞いにくるから、
その時、何か持ってくるよ。何が欲しい?。」

Mはかなり遠慮していたが、しつこく食い下がった
私に根負けしてか、「じゃあ…『ミュージック・ライフ』という
音楽雑誌があるんだけど、その最新号がそろそろ出る頃だから、
それを買ってきてくれないか?。」
彼のベッド脇のテーブルの上には、たくさんの文庫本とともに、
その『ミュージック・ライフ』とやらのバックナンバーが
数冊、積まれていた。
繰り返し繰り返し、読んでいるのだろうと見受けられた。

次の土曜日の午後。
部活練習を終えた私は、市内繁華街の書店にて、
発売されたばかりらしい『ミュージック・ライフ』誌の
最新号を確認し、手にとってみる。
洋楽を中心としたジャンルの雑誌のようだ。
当時、人気のあった洋楽ミュージシャンといえば、
「ミッシェル・ポルナレフ」とか「スージー・クアトロ」、
「カーペンターズ」くらいしか知らなかった私だが、
その程度の知識では、ほとんどこの雑誌を楽しむことが
できないであろうことは、中身をパラパラとめくってみただけで、
すぐに予想できた。
自分よりも、遥かに遥かに年上の世代の方々のための
雑誌であろう、とも思った。

書店の紙袋に入った『ミュージック・ライフ』の最新号を
手にしたMは、私に礼を言うのもそこそこに開封し、
すぐさま嬉々としてページをめくり始めた。
Mは、目的のページを見つけると、
「お。今月は“サイモン&ガーファンクル(=S&G)”か。」と
つぶやいた。
そして、そのページを私に見せてくれた。
油彩画か水彩画かわからないけれど、ページ一面まるまると、
グラビア印刷のカラーで、S&Gの二人の姿が描かれていた。
おそらくニューヨークの地下鉄であろう、薄暗い満員電車の中で、
ブ厚いオーバーを着て、すし詰め状態で揺られているS&Gを表した
かなりリアルに描き込まれたイラストであった。
恐らくは高名な画家の手による作品だったのだと思われる。

「これが…この企画が、この雑誌の一つの“売り”なんだよ。」
Mはそう言いながら、ミュージックライフ誌のバックナンバーを
取り出し、同じように、ミュージシャンを描いた他の号の
イラストを見せてくれた。
私にとって顔と名前が一致するミュージシャンは、S&Gと、
あとはわずかなもので、Mが見せてくれたイラストの
ミュージシャンは残念ながら私にとって知らないものばかりだった。

『S&G』というと「ヘイジー・シェイド・オブ・ウィンター」や
「アイ・アム・ア・ロック」をはじめとする、
“濃厚な冬のイメージ”を持つ名曲がいくつかあるので、
この「絵」は、その辺の雰囲気をうまく捉えている、と思った。
おそらく、私の知らないミュージシャンの「絵」も、
そのファンが見たら思わずニヤリとするような同様の
エッセンスが盛り込まれていたのだろう。
そう思った旨をMに話すと、彼は、寂しそうに
「この“企画”も、年度が変わる頃には終了しちゃうんだってさ。」と
寂しそうにつぶやいた。
更に彼は、「最近の“この雑誌”はおかしいんだ。
なんだか…ボクの好きな“いい所”がどんどん減って、
どうも変な方に向かっていってしまっている。」ともつぶやいた。

洋楽にかなり深い造詣を持ち、この雑誌の長い間の
ファンである彼のこの言葉を、当時の私が
理解することなど、とてもできるはずがなかった。
ただ、難解に聞こえただけだった。



そのちょうど一年後の、1974年晩秋の『ミュージックライフ』誌。
すでに深々と洋楽に傾倒しきっていた私の眼前において、
「EL&P」、「レッド・ツェッペリン」、「イエス」、
「ディープ・パープル」ら、“ロック音楽”の最先進国・英国の
そうそうたる大御所たちが上位をひしめき独占していた、
“読者投票によるミュージシャンの人気ランキング”に、
突如、彗星のごとく出現し、恐るべきスピードで上位を目指して
駆け上がってくるひとつの“新参バンド”があった。
名を『クイーン』という。

Mの入院は、結局、約一年というとても長きに
渡るものとなり、出席日数が遥かに足りないため、
気の毒なことに彼は「留年」となった。
まるで、新たな時代に突入し、たった一年で完璧に
様変わりしてしまった「ミュージック・ライフ」誌を
象徴するかの如く出現した『クイーン』と入れ替わるかのように、
古き良き時代の「ミュージック・ライフ」誌の大ファンであり、
私とはすでに"違う学年となってしまった”Mとは、
その後、顔を合わせることは、すっかりなくなってしまった。



あとは…
“星加ルミ子”の拡大路線のあとを受けついだ、
敏腕“水上はるこ”の手により「クイーンの提灯雑誌」と
化してしまった、かつての名門「ミュージック・ライフ」誌が、
このあと、更なる飛躍的な売り上げ部数の伸びを記録し続け、
1980年代末期になって「ロッキング・オン」にその首位の座を
明け渡すまでの、極めて長きに渡るあいだ、“洋楽雑誌界の盟主”で
あり続けていたのは、すでに、皆様がご存知のとおりであります。
メンテ

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