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クイーン年表1975 其の1
日時: 2019/05/28 15:00
名前: 喜楽院

1975年正月。
「シアー・ハート・アタック」を気に入った
従兄弟がレコード屋に発注していた
「クイーンU」がまずは届き、ほどなくして
ファーストアルバム「戦慄の王女」をも
従兄弟は手にすることになる。
お金持ちを羨ましいと思った。

「クイーンU」と「戦慄の王女」、その2枚を借りる。
カセットテープに録音する。
『90分(片面45分)×3本セット1000円』の格安の、
無名メーカーのカセットテープ。
この時代、カセットテープと言えば、
まずは「SONY」だろう。
30分、60分、90分、120分のラインナップ。
新参のフォロワーたる「TDK」が躍進していた時代。
LP録音用の46分テープが出回る遥か以前の時代。
90分テープ。
格安でさえ1本あたり333円。
タバコの「ハイライト」が80円の時代の333円。
日本国有鉄道(現:JR)の大人の初乗り運賃が40円か50円の時代の333円。
その333円の格安テープは、荒っぽい「PLAY」,
「STOP」、「FF」、「REW」を繰り返すと、容易にラジカセの駆動部に絡まり、
修復を余儀なくされた。
結局、修復がうまく行かず、当該テープを廃棄、
貴重な音源を幾度、無駄にしたことだろう。

1975年正月。
とにかく聴いた。
「シアーハートアタック」
「クイーンU」
「戦慄の王女」。
この3枚。

「クイーンU」の初聴取。
一聴して、まずは「ファニー・ハウ・ラブ・イズ」が印象に残った。
(初めて披露します)
続いて「マーチ・オブ・ザ・ブラック・クイーン」。

「戦慄の王女」の初聴取。
まずは「炎のロックンロール」、そして「ライアー」。
幼い中学2年生にも「ライアー」の出来栄えには驚いた。

1975年の1月は、自らが購入したイエスの「リレイヤー」と、
クイーンのアルバム3枚を、悪質な音源で録られたカセットテープを
モノラルで再生するラジカセで、ひたすらひたすら聴き続けた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−
(管理人 Sweetより)
クイーン史1975年の始まりですね♪
懐かしいカセットテープのお話しをありがとうございます。

私が使用した初めてのカセットテープは小学4年生頃に(与えられた)ブリタニカの英語教材テープでした。
その頃はまだテープデッキも珍しくて、おそるおそる「PLAY」を押してましたが・・・。

LPレコードをカセットテープに録音するようになったのは中学2年生くらいになってからかな、
小さいラジカセを買ってもらって。
でもその録音する時の失敗談って本当に色々ありました。^^;

ところで、喜楽院さんは、その3枚のアルバムをカセットテープで聴き続けたということは
あの素晴らしいLP盤ジャケットはじっくり鑑賞していなかった?
−−−−−−−−−−−−−−−−−
メンテ

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クイーン年表1975 其の2 ( No.1 )
日時: 2019/05/28 15:01
名前: 喜楽院

1975年(昭和50年)1月下旬。
喜楽院14歳。
中学2年生。
憧れの高校の合格を目指して、毎夜、ひたすら勉強中。
BGMはモノラル・ラジカセから流れるクイーン曲。
聴いた。
聴いた。
聴き込んだ。
クイーンのアルバム3枚の曲名、曲順はすべて覚えた。
にも、関わらず。

セカンドアルバムのB面ラスト「輝ける七つの海」の
エンディング、「ヨパライの唄」のメロディが、
サードアルバムのA面1曲め「ブライトン・ロック」の
オープニングの、サーカス会場のような喧騒の中で
再現されていることは、この時点で全く気付いていない。

21世紀を迎えたばかりの頃の、
「K&K掲示板」の投稿でこの事実を初めて知った。
あらためて確認した際、いやはや、驚いたの何のって・・・。

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(管理人 Sweetより)
 >「ヨパライの唄」のメロディ
"誰がヨッパライじゃ〜!このヨパライ爺ぃ!!"というツッコミは冗談として(笑)

「輝ける七つの海」のエンディングで歌われているのは
「I Do Like To Be Beside The Seaside」という古い曲です。

ちなみに、この曲のクレジットはフレディですが、
後にブライアンが「あれはほとんど僕が作ったんだ」とインタビューで答えてます。

なんにせよ、ラストにこんな古い曲を持ってくるあたりは、いかにもブライアンらしいなと思います。^^
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メンテ
クイーン年表1975 其の3 ( No.2 )
日時: 2019/05/28 15:03
名前: 喜楽院

1975年1月下旬の日曜日。

私の自宅から歩いて3分の従兄弟の家を訪れる。
例の醸造会社の工場を伴った建造物の一角の”娯楽室”。

従兄弟とその1歳年上の兄と、それぞれの友人1名ずつで
”麻雀”に興じていた。
私はこの時点で”麻雀”というゲームのやりかたを知らない。

例のお高そうなレコード再生装置からは、もちろん聞き覚えのある
クイーンの楽曲「ルーザー・イン・ジ・エンド」が流れていた。
ちょうど、その曲の再生が終わりかけていた頃。
従兄弟は「ちょっと待って。」と他に3人に声を掛け、
やおら立ち上がり、ステレオまで歩み寄って、レコード盤をひっくり返した。

B面1曲目「オウガ・バトル」が始まる。
セカンドアルバムを聴くうちに好きになった曲のひとつ。
だが、普段、聴いている慣れ親しんだ「オウガ・バトル」とは全然違うし。
圧倒的に音が良い。
ボーカルが、ドラムが、ギターが発する、それぞれの
一音、一音が、くっきりと形を伴って目の前に存在している感じ。
別の曲みたい。

粗悪品テープをモノラルラジカセで再生した音と、
当時の家庭用ステレオとしては比較的高級な部類のそれが
レコード盤を再生した音とでは、こんなに違うものなのか?。

現在、まだまだ話題の映画「ボヘミアン・ラプソディ」を、
14インチの白黒ブラウン管TVで鑑賞するのと、
劇場の巨大スクリーンで鑑賞するのと、同規模の乖離があった。
(そうか?)

麻雀をやっていた高校生4名。
怒号、嬌声、奇声を発しながら、ワイワイと麻雀にいそしんでいた。
私はクイーンのアルバム3枚のジャケットを、
ためつすがめつ眺めながら、大貫憲章、福田一郎らの手による
ライナー・ノーツをしっかり、しっかり読んでいた。

麻雀のBGM曲はB面4曲目「マーチ・オブ・ザ・ブラック・クイーン」に。
好みの楽曲を素晴らしい音で聴く。
幸せである。

ギャーギャー言いながら賑やかに麻雀をやってた4人が、
この曲の♪Put them in the cellar〜あたりから急に静かになる。
「どうしたんだろう?」と私はいぶかしむ。
♪Black on、Black onの数秒後、彼ら4名は突然、声を揃えて、
「ビギャーン!、ビギャーン!」と絶叫した。
心臓がでんぐり返るほど、私は激しく驚いた。

この、彼ら4名が、1975年4月19日の、
東京・九段、日本武道館における
英国の人気ロックバンド「クイーン」の、
初来日公演”初日”に参戦することを知るのは、
この数週間、後のことである。


−−−−−−−−−−−−−−−−−
(管理人 Sweetより)
1975年のお正月、
中1の私と中2の姉と父親の三人で麻雀やってました。(^^;
あと、マッチ棒を点数にして座布団の上で花札もやってました。(^^;;
どちらも小学校高学年から父親に教しえられて、
お正月にゲーム大会と称してそれで遊ぶのが我が家の恒例でしたが、
BGMにクイーンのアルバムを流すってのは、演歌好きの父親の手前、出来なかったぁぁぁ。
ても、「ビギャーン!、ビギャーン!」の絶叫 ←めっちゃ楽しそう〜いいなぁ♪

ところで、ライナーノーツはしっかり読まれたとの事ですが、
"B面1曲目「オウガ・バトル」" とか、
"B面4曲目「マーチ・オブ・ザ・ブラック・クイーン」"って・・・
サイドブラックは、『B面』ぢゃありませんことよ〜ン(^^;

私は「SIDE BLACK」→「SIDE WHITE」の順番でずっと聴いてきたので、CD化された時はショックでした。
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メンテ
クイーン年表1975 其の4 ( No.3 )
日時: 2019/05/28 15:04
名前: 喜楽院

クイーンの初来日公演が実現!。
これが決定したのはいつだったんだろう?。

1974年12月下旬に「シアー・ハート・アタック」を発売。
1975年2月にシングル「キラー・クイーン」発表。
このシングル曲のヒットを確認して、やおら来日公演ツアーの画策を開始・・・。
1975年4月17日に初来日、4月19日に日本武道館で公演初日、では、
あまりに日程的に性急過ぎたはずだが?。

1976年3月の二度目の来日公演ツアーや、1979年4月の三度目は、
集客力は容易に計れた筈だが、なにしろ初来日、データは皆無。
知名度もまだまだ。
「日本武道館」などという超巨大なハコを、無名の新人バンドがいきなり
一杯にすることが出来るんだろうか?。
まして地方都市での公演など、成功するんだろうか?。

(結果的にそのような余計な心配は、完全に杞憂だったわけだが)


−−−−−−−−−−−−−−−−−
(管理人 Sweetより)
「いきなり作風変えて質問コーナーかよ!」
「ビギャーン!の兄ちゃんたち出せよ」
と言う野次は冗談として。(笑)

1975年3月、「クイーンが福岡に来るばい♪」という情報より
山陽新幹線が博多まで開通した事を先に知った私。

その頃の貴重な情報源は全てラジオでした。
(中学生の頃はとにかくよくラジオを聴いてましたね)

さて、まだまだ無名のクイーンを招致したのは、ご存じのように渡辺プロダクションですよね。
当時の日本におけるアイドル育成にはプロ級のプロ!?と言われていたナベプロ!
あの羽田空港での熱烈歓迎女子たちも実はナベプロが事前に募ったとか・・・
お友達いっぱい誘ってプラカードも持って全員集合よ〜って言われたとか・・・
そのお陰で今もなお語り継がれていく度に増え続ける羽田空港でのファン総数!(爆)

極めつけは、田舎でも放送されていたゴールデンタイムの番組『スター千一夜』に出演!
さすがはナベプロです!ありがとうナベプロ!
クイーン初来日の成功はナベプロの手腕によるものと言っても過言ではないかと・・・。
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メンテ
クイーン年表1975 其の5 ( No.4 )
日時: 2019/05/28 15:06
名前: 喜楽院


”娯楽室”でタバコを吸いながら、
麻雀に明け暮れていた「ビギャーン」高校生4人。

その4人が、こともあろうに
来る1975年4月19日の日本武道館に行こうと
画策しているというハナシを、
その4名の中の一人である従兄弟から聞いた。

驚いた。
1975年4月の新潟県南西部の片田舎のローティーンどもが
こともあろうに大人の同伴なしで「東京さ」に行くなど、
2019年の現在での同じ条件で言うなら、
「アイスランド」とか「ボリビア」とかに行くくらいの
暴挙・蛮行・無理・無茶である。(大袈裟だし)

「お前も一緒に行かないか?。」
誘われた。

今から思うと、この時点でチケットは予約してなかったのかな?、だけど、
まあ、たかが新参者の無名の英国バンドの来日初公演。
当日券も山ほど余っているだろうと勝手に思っていたのも事実。
日本武道館の半分も埋まるのかな?とすら考えていた。

この時期「エンジェル」という、「クイーン」と
人気を二分するバンドが存在していて、
ええ、キッスやらエアロスミスやらが日本市場でブレイクする
1〜2年前の頃なんですけど、私はこの「エンジェル」が大好きで、
この「エンジェル」もクイーンと同時期に来日することになるわけです。
両方とも全国ツアー。

「クイーン」と「エンジェル」。
いよいよ宿命の対決。
どっちが、より沢山のお客を集めるのかなあ、と
中学2年生はワクワクしておりました。

たぶん、60対40くらいでクイーンの勝ち。
いや、もうちょい僅差かな?。
55対45でクイーンの勝ちかな?、と。

予想は完全にはずれてしまいましたが。

***

ある日曜日の午後。
新潟県南西部の自宅の2階。
二つ並ぶ8畳間に並行して走る廊下。
我が家ですべての決定権を持つ母親が
洗濯物を干している。
機嫌がいい。
「クイーン行き」の許可を乞う千載一遇のチャンス。

1階の屋根となる下屋には50cmほどの積雪しかなかった。
この視界・光景はよく覚えている。
1月なら100cmは軽く超えているはず。
間違いなく2月だった。

4月19日の「武道館クイーン」参戦は、
この我が母親によって、あっさりと却下された。
ありえないほどの落胆。
この辺の涙、涙の記述は、過去、この掲示板に
10回くらい記述したので、もう書かない。

でも、ちょっと書く。
これこそ我が人生最大の失意・痛恨・敗着の一打。
以降、60〜70年間に渡るであろう我が人生が、大きく大きく
変貌してしまった、容赦ない我が母親の「却下」でした。

悪魔の宣告の如く非情な一言「だめです。」は、
その後、どんなに撤回を願っても、
ひたすら土下座をして懇願しても覆らない。

以降、3日3晩、枕を濡らしました。


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(管理人 Sweetより)
1975年4月19日と言うことは、
喜楽院さんは中学3年生に進級されて立派な受験生じゃないですか〜。
それはそれは、お母様も喜楽院さんのことを心配されて、反対なさったのでしょう。
・・・な〜んて(^^;
殊勝なことを言ってる私も同じようにあっさりと母親に却下されました。

当時、うちの親は「ロックコンサート=不良の溜まり場」という考えだったので何言ってもダメでした。
ただその時に、「高校生になったらね!」の言葉を引き出した事は唯一の収穫でしたが。

ところで、エンジェルというバンド!
ハイハイ、いましたねぇ〜
いました、いました。いましたけど消えるのも早かったねぇ〜(爆)
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メンテ
クイーン年表1975 其の6 ( No.5 )
日時: 2019/05/28 15:07
名前: 喜楽院

「クイーン武道館公演参戦」を完全却下され、失意の日々を過ごす。

これより少し前だったか、「ミュージック・ライフ」という
名門音楽雑誌の1975年3月号が発売となる。
この雑誌は、小学校6年の頃からくまなく愛読している。(ほぼ立ち読み)
1974年度(1974年4月号〜1975年3月号)の年間「人気バンド」の投票結果発表。
ロック・ファンにとっては「レコード大賞」並みの注目度だったか?。

栄えある1位は「後楽園球場」でのコンサートを大成功させたばかりの
天下の大御所「エマーソン・レイク&パーマー」。
2位はロック界天下無敵・絶対王者の天下の大御所「レッド・ツェッペリン」。
3位は新参・無名の「クイーン」。

は?。
唖然・呆然・愕然。
なにこれ。
つい数ヶ月前までは「圏外」だったはずだが。
いきなり、いきなり3位だと?。

4位は天下の大御所「イエス」。
5位は天下の大御所「ディープ・パープル」。

この時のミュージック・ライフに掲載された、
3位クイーンのライブ演奏のヒトコマであるフォト、
その背後に聳える赤い照明群は綺麗だった。
さぞかし美しいライティングを誇るバンドなんだな、と思った。

「クイーン」。
投票結果で見る限り、とんでもない人気を博していることを確信した。

***

その後、更なる「クイーン行き却下」の失望の日々を過ごす。

1975年の2月下旬か3月上旬。
新潟県上越市の高田本町5丁目「多田金レコード店」の、
普段はスタジオとして貸し出されている2階のスペースで開催された、
「クイーン」「ディープパープル」のフィルム・コンサートを観に行く。
大混雑。
人いきれでムンムンの状態。

動いている「クイーン」の映像を観るのは初めてどころか、そもそも
ライヴ音源を初めて聴くのもこの時が初めてだったかと思う。

曲は「サン&ドーター〜ギター奏者のソロ演奏」。
この映像は、後述する1975年4月17日?にフジTV系で全国放映される
「スター千一夜」に使用された映像と同一である。

ちなみにディープ・パープルの方の演目は
デビッド・カヴァーディル在籍時の「BURN」。
カルフォルニア・ジャムの映像だった。

***

1975年3月。
AMラジオから流れる洋楽は、
これしかないのかい!?と毒づきたくなるくらい、
繰り返し、繰り返し、聴こえてくるのは
クイーン「キラー・クイーン」、
ベイ・シティ・ローラーズ「サタディ・ナイト」
スウィート「フォックス・オン・ザ・ラン」
の、3曲。

よくもまあ、飽きもせず、凝りもせず、
どうしてこの3曲ばかり、どの番組も執拗に執拗に、と、
間もなく中学3年生になる私は憤慨していたわけで。

今から思えば、よくぞまあ、100年後にもクラシックとして
後世の人々に高く評価されるであろう、稀代の名曲が
よくぞまあ、綺麗に3曲そろい踏みしていたもんだなあ、と
感嘆しきり。


後述することになる、1975年11月。
初めて「ボヘミアン・ラプソディ」を聴いて、
まずは1975年頃の「ミユキ毛織」のCMソング、
続いて、この「フォックス・オン・ザ・ラン」を連想した。


さてさて、観には行けないけれど、初公演日の
1975年4月19日は、ますます、近づいてくる。

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(管理人 Sweetより)
し・・知らなかった〜!!
1975年の初来日前にもクイーンのフィルムコンサートが開催されていたとは!
全然知らなかった〜(--;;;  いいなぁ〜、新潟県。
しかし、ということは、
あのSon And Daughterは「レインボー74」からのヤツってこと?
そうすると、あの名盤シートキッカーズの映像ってこと?・・・す・スゲェー★
おそるべし、多田金レコード店さま!!
−−−−−−−−−−−−
メンテ
クイーン年表1975 其の7 ( No.6 )
日時: 2019/05/28 15:08
名前: 喜楽院

1975年1月上旬。

私はクイーンのメンバーの名前を覚えた。

奇跡のようなファルセットを誇る
ボーカリストの名前はフレディ・マーキュリーさん。
いかにも「芸名」である。

ベースはディーコン・ジョンさん。
ギターはブライアン・ハロルド・メイさん。
ドラムスはロジャー・メドウス・テイラーさん。

きっちり覚えた。

以降、幾多のメディアにおける表示で、
「ブライアン・ハロルド・メイ」名は滅多に見なかったけど、
「ロジャー・メドウス・テイラー」名は頻繁に見た。

同じミドルネイムでありながら、この差は
なんだったのだろう?と今でも不思議に思う。

***

1975年2月下旬。
春、近しではあるが積雪は数メートル。
シングル「キラー・クイーン」発売直後の
新潟県新井市立新井中学校2年生の善良な、
受験勉強にラジオを聴きながら勤しむ生徒達。

「クイーン」というバンドがあるが、あのバンドの
ボーカリストは女性である、という認識が、
校内の一部ロック・ファンの間に広がる。
何故か正義感を打ち出す私は、その誤解を懸命に打ち消す。
違う違う。あれは男性、男声だよ、と。

その後、校内の一部ロック・ファンにに新たな嘲笑が広がる。
「ウィーン少年合唱団」ならぬ、
「クイーン少年合唱団」だね。

後述する1976年1月デビューの「華麗なるレース」のライナーノーツで、
クイーン擁護の筆頭たるロック解説者・大貫憲章氏が
極めて遅ればせながらここで激しく危惧した「クイーン・ファンいじめ」の
ルーツ・発端は、案外、ここかも?という気がしないでもない。

ある夜、某深夜ラジオ番組のDJが、
「クイーンのボーカリトであるフレディ・マーキュリーは
4オクターブの音域・声域を持っています」というコメントを放った。

翌朝、校内で「♪ドーレーミーファーソーラーシードーレーミーファー
ソーラーシー、ドーレーミーファーソーラー・・・・はあ、はあ、はあ、」と
思いっきり呼吸困難に陥っている愚か者を複数、見かけた。

で、ギター奏者であるブライアン・メイさんのギターは、彼のお父様と一緒に、
100年以上使用した暖炉の木材を削りだして作製した。
しかも数億円という莫大な保険金が懸けられている。
当時のクイーン・ファンの誰もが知る「イロハのイ」の大常識である。

暖炉?。燃えろよペチカか?。

暖炉など見たことが無い片田舎の中学生は、
暖炉って、「三匹のこぶた」に出てくる
賢い三男が使用した「レンガ」で
出来ているとばかり思っていて、
木製の暖炉?、そんなの及びもつかなかった。

「数億円の保険」のハナシは実は”迷信”であったと、
後述する1975年4月17日、19:45から放映された
「スター千一夜」という番組で、証明される。
いやはや、驚いたの何のって。

冬来たりなば、春遠からじ。
丈余の雪壁が少しずつ低くなりつつある、
嬉しくて、のどかな、新潟県南西部の片田舎。

1975年4月19日は、もうすぐ。

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(管理人 Sweetより)
すみませんねぇ〜、細かい事が気になるもので(by 杉下右京)・・・
少しだけ訂正させてください。

先ず、「華麗なるレース」発売は76年12月です。(このアルバムから世界同時発売)
そして「スター千一夜」は初来日ツアー中の4月20日収録で放映は4月28日ですね。^^

さて、私がメンバーの名前を覚えたのは1974年でした。
最初に見たのがセカンドでの英語表記だったので、John Deacon、で覚えました。
でもその後に購入したファーストには「Deacon John」と記載されていて迷いましたが、サードアルバムで決着。
そしてファーストとセカンドアルバムのメンバー表記は、ロジャーだけがミドルネームまで記載されています。
サードアルバムではライナーノーツに記載がありますが、そこでのロジャーのミドルネームは記載なしです。
(ブライアンのミドルネームを知るのは私はもう少し後でした。)

ところで・・・
>思いっきり呼吸困難に陥っている愚か者
ドキッ★・・・私もその愚か者の一人で〜す。(--;
いつだったかな、昼休みにこっそり音楽室行って電子オルガン弾きながら・・・呼吸困難に。(笑)
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メンテ
クイーン年表1975 其の8 ( No.7 )
日時: 2019/05/28 15:09
名前: 喜楽院

SWEETさん、おこんばんは。

>そして「スター千一夜」は初来日ツアー中の
>4月20日収録で放映は4月28日ですね。^^

げー。
私の記憶では来日当日の「4月17日に生放送で、
司会は関口宏」でした。

荻島真一が司会だったと知らされたのは、
1998年頃の「K&K掲示板」でして、
いやはや、そのときは激しく驚きました。

で、今回。
4月28日の放送でしたか。
本当に驚きました。

歪んだ記憶を40年以上、
もち続けていたわけですね。

本当に嘆かわしいことです。
誠に申し訳ありません。

至らぬ駄文を性懲りもなく、あやふやな記憶を元に
ヨパライは以降も延々と書き続けますが、
都度、忌憚無き「指摘・訂正・修正・添削」を
何卒よろしくお願い申し上げる次第でございます。

***

で、この番組。
大好きだった「英語塾」をズル休みして自宅で見た。
自宅1階の居間に鎮座するカラーTVは両親が占拠していたので、
やむなく2階の白黒20型ブラウン管TVで鑑賞する。

荻島が4人のメンバーに「パート」を尋ねる。
マーキュリー氏のコメントを覚えている。
「ボーカルです。」と言ったあと、
あと、ピアノだかキーボードもやります、とかの
コメントを付け加えた。
両手を差し出して、鍵盤を弾く様に、ヒラヒラさせた。
可愛いじゃん。
やはり日本人ではないノリだ。
流石は外国人。
流石は「一等国」たる大英帝国。
怖い印象だったけど、案外、いい人たちかも知れない。

続いて「サン&ドーター」の映像が流れる。
「多田金レコード」の2階で観た映像だ。
多田金では、この「サン&ドーター」の他に、
もう一曲、クイーンの映像を観たはずだが、
それが何の曲だったかは忘れた。
これを思い出せないのが、正直、
もんのすごおく悔しい。

で、スター千一夜における、貴重な「サン&ドーター」の映像は、
わずかな時間で終わる。
映像終了後、メンバー4人全員が、「イエー!!」と言いながら拍手。
この「拍手」には驚いた。
やはり「三等国」の日本人には決してないノリだ。
流石は外国人。
流石は「七つの海を制した大英帝国」。
怖い印象だったけど、案外、いい人たちかも知れない。

世界経済史において、他に類を見ない高度経済成長を
遂げつつある最中である、1975年の日本国の、新潟県の片田舎の
中学校3年生になったばかりの、声変わりを終えていない少年は、
周囲の、クイーンと同世代の日本人とかとはまるで違う、
あきらかに異なるイギリスの若者の“ノリ”に、とまどう。

「塾」をズル休みした価値は十分にあった。
ライブ以外で動いているクイーンを初めて観た。
初めて、憧れのクイーンに会えた気がした。

−−−−−−−−−−−−−−−−−
(管理人 Sweetより)
喜楽院さん、いえいえ(^^;、私も記憶違いは多いですし、思い違いや思い込みも数知れず・・・
でも、アラ還(アラウンド還暦)には、よくある事らしいので(^^;、気にしない♪気にしない♪

それに私も『スター千一夜』の司会と言えば、石坂浩二と関口宏の記憶が強く残ってます。
あと、その前の『クイズ・グランプリ』で言えば、ナレーターの丘かおる←強く強く記憶に残ってます。
どちらも、たった15分番組でしたが、当時は短いとは感じていませんでした。

それより、
 >多田金では、この「サン&ドーター」の他に、もう一曲の映像を観たはずだが
それはきっと、
「モダン・タイムス・ロックン・ロール」でしょう!(74年3月盤はその2曲しか映像がない)
いや、これマジすごいっスよ!!多田金というだけに、只者ではない?!^^;
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メンテ
クイーン年表1975 其の9 ( No.8 )
日時: 2019/05/28 15:10
名前: 喜楽院

1975年4月20日(日曜日)。
朝。
醸造会社の一角の娯楽室を訪ねる。

私に「クイーン」を伝道した高校2年になったばかりの『従兄弟』の、
その1歳上の、高校3年になったばかりの、その兄がいた。

2ケ月くらい前に、この「兄」に、「クイーンU」で
一番好きな曲は何か?と尋ねたことがある。
彼は迷わず「ファザー・トゥ・サン」だと答えた。

彼は、ロックについて造詣の深い他の「ビギャーン」3名と共に、
前夜の日本武道館での「クイーン来日初公演」を鑑賞し、
特急「あさま」で恐らくは深夜の帰宅、その翌朝である。

当該公演の感想を尋ねる。
これを聞きたいが為に、朝っぱらから訪れたのだ。
披露困憊のはずの彼は、興奮気味に語った。

「最初の曲、ナウ・アイム・ヒア。
暗闇。イントロの途中でストロボ。うわあ♪。
目が見えなくなる。
ストロボ、またしても、もう一発。うわあ♪。
見えない。
視力が回復する。
フレディが白い服を着て、舞台狭しと激しい動き。
おお!、これがクイーンか。」

私はこの時の映像を一切、観ていない。
観ようともしない。
この公演行きを却下された、当時38歳の、
2019年2月現在、82歳になる実母への、切々たる「恨み」だ。
未来永劫、この1975年4月19日の映像は観たくない。
叶わぬ夢だが、生まれかわるなり、時間を巻き戻すなり、を施して、
ただただ、ひたすら、この時のナマが観たい。

どんなに、いかに優れた映像であろうとも、
「クイーン」の場合は特に、
その迫力は“リアル”の百分の一にすら、遠く及ばない。

以下、あくまで想像である。

4月19日。
会場は17:00。
開演予定時刻は18:30。
さんざんジラされて、
19:02、唐突に武道館の照明が落ちる。
暗闇と化す。
刹那、観衆1万人のうちの7000名の女性の悲鳴。
「ギャーっっっ」
オープニングは「プロセッション」だと聞いている。
その曲のラストのギター・オーケストレイションの
サスティーンのあとの
「ピピピピ・・・」にオーバー・ラップして、
「ナウ・アイム・ヒア」のイントロが始まる。
ギター音。
♪クァン・クァン・クァン・クァン・クァン・クァン・クァン・クァン…
♪Here I Stand・・・
♪Looked around, around, around, around, around
いまだに暗闇。

♪NOW I'm here〜〜〜
♪だっっ、だっっ(テイラー氏のバスドラ)と同時に
ボン!(マグネシウムを焚いたストロボが炸裂)。
闇の中、凝視していたステージでの強烈な発光。
1万人の網膜があぶられる。
視界を奪われる。


暗闇。
♪クァン・クァン・クァン・クァン・クァン・クァン・クァン・クァン…
♪Now Im there〜〜
♪だっっ、だっっ(テイラー氏のバスドラ)と同時に
ボン!(マグネシウムを焚いたストロボが炸裂)。
闇の中、凝視していたステージでの強烈な発光。
またしても1万人の網膜が焼かれる。
トドメの一撃。
完全に視界を失う。

I'm just a!
Just a new man
Yes, you made me live again

耳をつんざく大歓声。
クイーン自慢の豪華絢爛な照明群が全点灯。
しかしながら1万人大観衆は網膜の回復に時間を要し、
いまだにブラインドの状態だ。

メイ氏の濁ったギター音が場内に轟く。
舞うマーキュリー氏。
白鷺ルックの「白」が、照明群の赤、黄、緑の光線を反射する。

♪A baby I was when you took my hand

1万人の観衆の、焼かれた2万の網膜が、ようやく視界を取り戻す。
ようやく目に映る光景。
ステージは濃厚な渦を巻くスモーク。
きらびやかに踊る4名。
そして世界トップクラスの豪華照明群。
すべてが視界に飛び込む。

やっと、やっと、やっと「クイーン」に会えた!。
リアルタイム・クイーン・ファン1万人の落涙の大感激。

狂熱のステージが開幕した。

−−−−−−−−−−−−−−−−−
(管理人 Sweetより)
 >彼は迷わず「ファザー・トゥ・サン」だと答えた。

冗談抜きに、私はビギャーンの兄ちゃんたちにはとても興味を持っています。
3枚のアルバムの中で、特にセカンドを愛聴している様子からも、
うちの姉のように、もしかしたら、「オペラ座の夜」でクイーンから離れて行くタイプじゃないかなぁ〜と。
あの当時で高3男子がどっぷりクイーンにハマる感じがしないので・・・って勘ですけど。^^;

さて、素晴らしい"想像"のクイーン武道館コンサートですね!(笑)
武道館どころか、九電体育館にさえ行けなかった私はこの翌年だったかな?
海賊版LPレコード「QUEEN...STUNNING live in tokyo」を見つけて購入。(当時は千円とか二千円以下で買えた)
(1975年5月1日の東京武道館の音源。)
凄まじい観客の叫び声に驚きつつ、映像を妄想しながら聴いてました。^^
−−−−−−−−−−−−−−−
メンテ
クイーン年表1975 其の10 ( No.9 )
日時: 2019/05/28 15:12
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

1975年2月。

私が1975年4月19日の武道館における
クイーンの来日初公演初日に、
鬼母の猛反対に遭って
行けなくなって、毎日、泣いて、
失意の日々を過ごし、狼狽し、憔悴していた頃の
新潟県新井市立新井中学校2年2組。

かぐや姫ファンの「H」という男がいた。
その、「かぐや姫ファン」のHさんは。
1975年4月に控えた「かぐや姫の解散」の報を受けて、
ひとりで、クラスで、大騒ぎしていた。
彼も、私との違う種類の、落胆と狼狽と憔悴のさなかでした。

で、ここで、私は彼に余計なお世話の「一声」を掛ける。
まあ、後の「クイーン布教活動」の一環なわけでして。

残念なことに、彼は、私の発言に激怒するわけです。
私に対して、
「お前に『かぐや姫』の素晴らしさの何がわかる?!」。
気色ばんでいきり立つ彼。

数秒後、ボソッと小さな声で、彼に向かって
「♪夜が終わって朝に僕を」と、微かに歌いました。

驚愕の野球部主将のH。
目を剥いて驚く。
「どうしてその曲を知っているんだ?!」。

しょうがない。
野球部主将のHは、『現実』をよく理解していない様子だ。
では、もう少しほんのわずか、ちょっとだけ
「上のレベル」を披露しよう。
あまり、やりたくないけど。
水泳部主将の私は、彼に耳に、当該曲の
セカンドコーラスの「♪たったひとつの部屋の窓を」を、
今度は3度の簡単なハモリの、高音側のパートを小さく、優しく歌う。

***

一年後の1976年3月22日午後3時。
私は、『すでに”かぐや姫”のことなんかすっかり忘れて、
EL&Pのカール・パーマーの大ファンと化した
もうじき高校生となるHさん』と共に、日本武道館を訪れる。
クイーン2度目の来日公演、
その初日のステージを観るために。

***

上記の、往時の詳細は後日に記します。
宜しく御願い申しあげます。

***

まずはこれから行きましょうか。

下はその時の入場券の控え。
「ボヘミアン・ラプソディ」という曲を
英国の人気ロック・バンド「クイーン」が、
日本国で初めて披露した時のものです。

***
https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg
出典:
「喜楽院家・家宝」第39号。
「新潟県妙高市関川町・重要文化財」第4号。

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(管理人 Sweetより)

 >では、もう少しほんのわずか、ちょっとだけ 「上のレベル」を披露しよう。

・・・うわ〜、ヤな奴!(爆) 
というつぶやきは冗談として(^^;、

お宝写真をどうもありがとうございます。
詳細は後日ということでこちらも楽しみにしております。^^

さて、水泳部と野球部の主将同士の美しい絆は76年二度目の来日公演で実を結んだワケですね。
なんとも羨ましい限りです。
私も75年初来日を親に却下されたけれど、
なんとか「高校生になったらね!」の言葉を引き出した事で、
高1(77年4月)からの解禁を心待ちにしてたんですけどねぇ・・・
やっと来たのが高校最後の年でした。
75年、76年と立て続けに来日したのに、まさか3度目が79年になるとはねぇ〜。
あの時は長かったわ〜
−−−−−−−−−−−−−−−−−
メンテ
クイーン年表1975 其の11 ( No.10 )
日時: 2019/05/28 15:13
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

1975年4月20日(日曜日)。

ビギャンビギャン兄弟の、
「ファザー・トゥ・サン」が好きな兄のほうから、
昨夜、1975年4月19日(土曜日)の
東京・九段、日本武道館ライブのオープニングにおいて、
ストロボで目を焼かれて、いや、これが、とてつもなく凄くて、の
あーでもない、こーでもない、の印象をさんざん聞かされた後、
当該公演の音源を聴かされる。

大きな声では言えないが、
小さな声だと皆様に聴こえないと思うので、
しょうがないから普通の声で言うが、たぶん、
日本武道館にモノラルラジカセを持ち込んだものと
推察される。

クイーンのまとまったライブ音源を聴くのはこれが、もちろん初めて。
わくわくしながら聴き始めたはずだ。

2019年2月11日現在、この音源の記憶はほとんど残っていない。
よほどつまらない内容だったのだろうと思われる。

唯一、残存している記憶。
ステージは後半に差し掛かっている。
演奏曲は「イン・ザ・ラップ・オブ・ザ・ゴッド」。
リヴィジテッドの方。
日本武道館の雰囲気は明らかに怠惰、ダレていた。
トイレに行く人も多かったことだろう。

ビギャンビギャンの兄ちゃんたち4名が、
恐らくは周囲におられた可愛いお姉さま方に、
「これから飲みに行こうよ。」、
「どこかいいパブ(死語)知らない?」、
などと、しつこく、声掛けしている模様が再生されている。

その様子を表す音声だけは、44年近く経つ、今でも克明に覚えている。
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(管理人 Sweetより)
 >しつこく、声掛けしている模様が再生されている。
 >その様子を表す音声だけは、44年近く経つ、今でも克明に覚えている。

うんうん、わかります!!
そういうのって、「あるあるネタ」じゃないけど、よくありますよね。
肝心な所が抜けて、どうでもいいところだけが延々と録音されてたって失敗が。

あと、カセットテープにはA面用ツメとB面用ツメがあって、それを折るのを忘れて貴重な録音が消えてたり。
それは、後のVHSビデオテープでも、よくやらかしてましたが。(--;
−−−−−−−−−−
メンテ
クイーン年表1975 其の12 ( No.11 )
日時: 2019/05/28 15:14
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

1975年。
クイーン人気の上昇と共に、かねてから存在する
比較的「硬派」だった「ミュージック・ライフ」という
音楽雑誌があった。
フォロワー的存在だった「音楽専科」もありましたね。
いつぞやは表紙に、ロジャー・メドウス・テイラー氏の
ド・アップ顔写真を起用。
大騒ぎになりました。

ミュージック・ライフ。
星加ルミ子、東郷かおる子、水上はる子らの実力派ライターの手によって、
クイーンを取り上げたこの時期から飛躍的に販売部数を伸ばす。

当時、ミュージック・ライフには、ビートルズの、オリジナル曲だか
カヴァー曲だかは知らないが、なにしろ曲名から引っ張ってきたと思われる
「He said She Said」というタイトルの、優れた読者投稿欄が存在していて、
知的レベルの高い、極めて美しいと思われる、14歳の私よりは、
5歳〜10歳くらい年上の女性たちが、口角泡を飛ばして、
議論を交わし、思い思いの熱い意見を述べていた。

その中で一際、異才を放っていた常連ライターが居た。
20歳代前半と思われる、恐らくは美しい女性。
ペンネームを「喜楽院」という。
「Killer Queen」をモジったのは一目瞭然。
なんて素敵なネーミング。
彼女らしいユニークな視点から繰り出す、幾多の優れたコメント、
存在感ある筆致は、たちまち14歳の男子中学生の憧れの対象となる。

その後、30年以上が経過した1997〜1998年頃。
インターネットが普及し、いろいろなサイトが蠢動し始める。
当時、一日中、パソコンの前に座っていなければならない
部署で勤務していた30歳代後半の私は、業務上、もはや必然的に
「クイーン」のサイトを幾つか見つける。

「マイ・フェアリー・クイーン」
「かよさんのクイーンのページ」
「アラマキさんのなんとか」
などなど、10個ほど存在していたが、
当時は上記3件のみがしっかりしていて、
読み応えのある、強く好感を持てるサイトだった。

当時、個人的に波長が合って、
特に気に入ってたのが「マイ・フェアリー・クイーン」。
ファースト・アルバムのA面4曲目のタイトルをモジったものだ。

このサイトに初めて投稿しようとした際、
さて、自らの「ハンドルネーム」をどうしようか迷った。
それこそ勢いで、手拍子で「ミュージック・ライフ」で
憧れだった「喜楽院」を思い浮かぶ。
パクった。

クイーン関係のサイトで「喜楽院」名でウロチョロしていれば、
そのうちに”本物の”「喜楽院」さんが現われて、私に対して、
「これ。そなた。喜楽院を名乗るのは、やめれや。」と苦言を呈すはずだ。

そうすれば、憧れの「喜楽院お姉さま」と連絡がとれるかも知れない。
私はせっせと「マイ・フェアリー・クイーン」に投稿した。
このサイトが「かよさんのページ」と合併して、現在の「K&K」になってからも
私はせっせと投稿した。

以来、20年を経過した2019年2月。
お元気であれば、60歳代前半になられておいでの
「喜楽院お姉さま」からの、
私がひたすら待ち続けている『苦言』は、いまだに無い。


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(管理人 Sweetより)
>「かよさんのクイーンのページ」
>「アラマキさんのなんとか」
こらこらぁ〜!!
タイトルくらいちゃんと書け〜っ!!という天の声に代わりまして(^^;、
正しくは、
「かよさんのクイーンのページ」ではなく、『kayo's Queen Fan Club』
「アラマキさんのなんとか」ではなく、『Greatest Queen Page』です。
ところで、
私が98年からひたすら待ち続けているハンドルネームの方は、「39」さん or 「G」さんです。
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メンテ
クイーン年表1975 其の13 ( No.12 )
日時: 2019/05/28 15:15
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

1975年11月下旬。
発売日に「オペラ座の夜」を購入した友人Tから、
その翌日に当該アルバムを借りて聴く。

実に素晴らしい。
このアルバムが如何に素晴らしいものであるか、
この時のインプレは、過去、幾度も、さんざん
この掲示板に投稿したので今更、書かない。
割愛する。

念のため「wiki」で「オペラ座」の出自を確認する。
日本発売は1975年12月21日との記載。

あり得ない。

12月21日といったら、私の住んでいた「新潟県新井市」は、
積雪が2〜3メートルあって当たり前である。

私が初めて「オペラ座の夜」を聴いたのは、
吐く息がかなり白くなって、
もうじき冬が来るなあ、雪が降るなあ、いやだなあ、と
思っていた頃である。
「オペラ座」のアルバムを持ち帰った新井市内の
私の自宅周辺に積雪は無かった。

wikiの記載はどなたが書いたのかは知らないが間違っている。
仮に発売元のワーナーパイオニアの公式発表が
「1975年12月21日」だったとしても、それは間違いだ。

私がクイーンの最新作「オペラ座」を友人Tから、
借りたというのは、推察するに、ビギャンビギャンの
兄ちゃんたちが、当然、発売日に当該アルバムを
購入することが無かった、ということだ。

1975年4月19日に、日本武道館で、彼らにしてみれば
正直、期待はずれのステージを見せられて、
彼らは意気消沈したのかも知れない。
興味を失ってしまったのかも知れない。

従兄弟の「オペラ座」に対するコメントは全く私の記憶に無い。
その従兄弟の兄、クイーンUにおける最高傑作は
「ファザー・トゥ・サン」だと言い放った彼の、
「オペラ座」を初めて聴いた時のコメントを覚えている。
最終曲の「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」が、
「これはこの間観た公演(1975年4月19日・日本武道館)の
最後に流れた曲だね。」
へえ。そうっだたのか。と驚いた。

このクイーンの4作目は「オペラ」を意識したもので、
「ボヘミアン・ラプソディ」という、よくわからんが
なにやらとにかく凄いという評判の曲が存在することは、
新潟県の片田舎に暮らす中学3年生の耳にも、
しばらく前から届いていた。
一応、雰囲気的には昨年の
「キラー・クイーン」の時と同様に。

「オペラ」?。
「オペラ」ですって?。
一体、何になるの?、それが。

友人Tから借りた「オペラ座」を聴いて、
とにかく「ボヘミアン・ラプソディ」にはもの凄い衝撃を受けた。
如何に素晴らしいものであるかは、過去にさんざん、
何度もこの欄に書いたので、今更、書かない。
割愛する。

ただ、決して、あと出しジャンケンでは決してないが、
この時に抱いた、決してネガティヴではないのだけれど、
ハナシを聞いて頂ける人によっては、ともすると
ネガティヴに聞こえてしまうかも知れない、
当時の、真面目で真摯な私の印象を素直に述べる。

1960年代後半から1970年代前半にかけて、
すべてをやりつくして行き詰まり、完全に「ネタ」の無くなった
様々な英国ロックバンドが、次々に様々なアプローチを試みた。
まずは、クラシックとの融合が手っ取り早い。
「バッハ」に傾倒したディープ・パープルを皮切りに、
イエスやEL&Pなど、あからさまにクラシックに
没入した新進のプログレ・バンド。
ピンク・フロイドにキング・クリムゾンにフォーカスに、
枚挙に暇がない。

ロックと、様々な異文化音楽の融合を試みる断末魔の英国ロック界。
最後に、のこのこと現われたのがクイーン。
あらゆるジャンルは手垢にまみれていたが、ほとんど手付かずに
残っていたのが、唯一「オペラ」。

「シアー・ハート・アタック」の次作は「オペラ」を意識したものらしい。
ウワサが飛び交う。
1978年秋、クイーンの7作目のタイトルが「JAZZ」と判明したときに、
発生したウワサに似ていたような、似ていなかったような。

「クイーン」と「オペラ」の関係性など完全にゼロと思っていたはずだ。
当時のほとんどの一般的なリアルタイム・クイーン・ファンは。

極めてごく一部の、気の効いた当時のクイーン・ファンは思ったはずだ。
「なるほど。この手があったか!。」と。
同時に「しかし、それが何になる?」、とも。

過去20年に渡る、私の相変らず突飛な例えで申し訳ないが、
洋食レストランにおける「オムライス」という料理を思い浮かべる。
先発者達はオムライスの主要部分を食べつくし、
次に現われた者たちは、付け合せのキャベツの千切りを
残らず食べ尽くす。
次に現われし者たちは残されたレモンの薄切りを齧り、
更に次に現われた者たちは、皿についたケチャップを
綺麗に、綺麗に舐めあげる。
最終到達者のクイーンは、皿の中にポツネンと残った、
パセリのカケラを得る。
クイーンが「オペラ」にたどり着くのは必然でもあった。

マーキュリー氏はつぶやく。
パセリしか残っていないのだから仕方がないじゃん。
では、これで行きましょう。
そうしましょう。

1960年生まれの中学3年生が、迫り来る大雪の季節を
心の底から怯えながら、1975年11月の末、「オペラ座の夜」の
発売日の翌日に初めて聴いた「ボヘミアン・ラプソディ」。
その時に抱いた数々の印象の中の、ひとつ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−
(管理人 Sweetより)
 >仮に発売元のワーナーパイオニアの公式発表が「1975年12月21日」だったとしても、それは間違いだ。

ほぅ、言いきっちゃいましたねぇ。
ちなみに、大貫憲章さんが担当したライナーノーツには必ず記載日を残しています。

それによると、
「戦慄の王女」は、"74年1月"(発売は3月)。
 ※セカンドは福田一郎さん、サードは東郷かおる子さん

そして、「オペラ座の夜」は、"75年11月26日"と記載されてます。
そうすると、ライナーノーツを書いてから少なくとも4日以内に発売されたという事になります。

まぁ・・・それが可能だったかどうかは、私には分かりませんけどね。(^^;

それより、ビギャンの兄ちゃんたちは、(やっぱり)オペラ座の時点で去っていったのですねぇ。
でも初来日コンサートでの英国国歌に気が付いていたとは、従兄弟の兄ちゃんは素晴らしい!

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メンテ
クイーン年表1975 其の14 ( No.13 )
日時: 2019/05/28 15:17
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

クイーン4作目「オペラ座の夜」。
1975年12月21日、日本国内発売。(ち。笑)

私は当初、当時の多くのクイーン・ファンがそうであったように、
B面の「預言者の歌」と「ボヘミアン・ラプソディ」ばかりを
繰り返し、繰り返し、猿のように聴いていた。
4枚目の中でも、傑出した出来栄えの2曲である。
8分超えと6分超えの大作同士だ。

その中に、クイーンの盟主であるべきはずのメイ氏が、
後進のマーキュリー氏の大躍進におびえる図式を垣間見る。
大方、決着はついていたはずだが、まあ一応、念のため。

「クイーンU」で、驚愕かつ不滅と思われる恐るべき才能を
如何なく発揮したマーキュリー氏が、メイ氏の影が少し薄れた
「シアー・ハート・アタック」で、更なる、確固たる地位を築く。

8分に及ぶ大作「預言者の歌」はメイ氏入魂の作品だ。
なにしろリベンジあるのみ。
失われた地位を取り戻すべく、周到な経緯で臨んだ渾身の作品。

オペラ座のB面に、当該曲と同居したのは「ボヘミアン・ラプソディ」。
この曲の原案を耳にしたとき、メイ氏は声を失ったはずだ。
「極めて強い驚嘆と落胆」が同時に発生したことは容易に想像できる。
挙句に、すでにその瞬間には、彼は”ほとんどすべて”を悟ったことだろう。

「預言者の歌」は、当時としては画期的な素晴らしい楽曲。
本来ならば「4枚目の中核曲」になるべき曲だった。
しかしながら「ボヘミアン・ラプソディ」は、
それを嘲笑うかのごとく、遥かに、その上を行った。

「預言者の歌」と「ボヘミアン・ラプソディ」。
両大曲の、激しいせめぎあいを苦しく、せつなく感じた、
当時のリアルタイム・クイーン・ファンは少なくなかったことだろう。

その点、A面は呑気な佳曲揃いで、心安らかに聴くことが出来た。
2019年の今でも「オペラ座の夜」は、「シーサイド・ランデヴー」で、
はい、おしまい、でありまして、B面は聴きません。

1984年、映画「アマデウス」が大ヒット。
古今及び洋の東西を問わず、映画史に燦然と光り輝く稀代の名作。
これは本当にいい映画、素晴らしい作品でした。
VHSテープをレンタルして都内豊島区椎名町の住居で、
結構、素敵な再生装置を介して(笑)、大音量で鑑賞しました。

なにしろ、『サリエリ』がメイ氏、
『モーツァルト』がマーキュリー氏に見えてしょうがなかった。

特に死期間近の、ベッドの上の”天才”モーツァルトが
自分の葬儀のための、即興のレクイエムの旋律をつぶやき、
それを”凡人”サリエリが、あたふたと必死に書き留めるシーン。
クイーン4枚目「オペラ座の夜」の製作現場を強く連想した。

この映画の原作・脚本のピーター・シェーファー氏は、
敬虔なクイーン・ファンだったかも、と勝手に想像している。

***

以上、「オペラ座の夜」の初聴取でした。

「戦慄の王女」、「クイーンU」、「シアー・ハート・アタック」、
くまなく、くまなく聴いた自分の知っている上記3枚のクイーン曲以外に、
今までに聴いたことがない、全く新しいと思われる作品が、自分の耳に届く。
A面1曲目「デス・オン・トゥ・レッグズ」には本当に感激しました。
「クイーン」は”現在進行形”なんだと、あらためて認識した瞬間です。

この3ケ月後に、私は、クイーン2度目の来日公演の初日、
聖地・日本武道館に参戦することになります。
現在進行形のクイーンに、初めて接触できるのです。

わくわく♪。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
(管理人 Sweetより)

 >1975年12月21日、日本国内発売。(ち。笑)

・・・ん?
なんか言った?(^^; という独り言はさておき、
クイーン年表1975シリーズを14まで引っ張っておきながら
「預言者vsボヘラ」とは・・ちょっち残念。

個人的には、「オペラ座の夜」は1976年シリーズに該当すると思われ、
1975年シリーズに欠かせないのはクイーン初来日の「その後」であると思われ、
それは渡辺プロが仕掛けたアイドル路線の「成功」とその「余波」・・・って、
これは長くなるので割愛。

ちなみに、クイーン初来日の4月、ロンドンでは「Tommy」のプレミア・ショーが開催されました。
知る人ぞ知るザ・フーのロック・オペラの映画化ですが、英米では大ヒットしたにも拘らず
日本では遅れて(76年)上映された上に短期間で打切りになりました。
その理由は
当時の日本はロック・オペラに馴染みが薄く、映画館の大音響設備も対応仕切れていなかったから。
1975年の日本はそういう状況であった事を踏まえて、クイーンのアルバムを追っていって頂ければと。

しかし、またしてもクイーンのレコードを、“借りて” 聴いてるのですね。
「オペラ座」を借りたこの時、喜楽院さんは一体誰のレコードを購入してたのか?それも知りたいな。(ぼそっ)


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メンテ

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