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クイーン年表1976 其の1
日時: 2019/05/28 15:19
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

私には幼い頃からの夢がありました。
『自転車で日本一周をする』という夢です。

大学生になったら、4回訪れる長い夏休みを利用して、
それを確実に実施するという意思を小学生の頃から
強く抱いていました。

高校受験を間近に控える中学3年の冬の1976年2月のこと。

その1年前。
1975年4月19日の私のクイーン初来日公演参戦を、
完全却下した母親に、喜楽院、完全激怒。

1976年3月下旬の、以降の高校入学を控えた春休みに、
『将来の、日本一周実現の、その前段、前哨戦として
東海道五十三次自転車ツアーを実施したい』と
あらためて、その母親に申し出ました。

自転車をバラして袋に詰めて、新潟県発の深夜の夜行列車で出発、
早朝に東京駅で自転車を組み立てて、都内日本橋を基点に、
とにかくひたすら国道1号線を走破、「箱根、三保松原、浜名湖、名古屋」の
4箇所で宿泊、都合4泊5日で京都三条大橋に到着という、
今から40年以上前の中学生にしてはちょっとだけ壮大な計画です。
日程は1976年3月25日〜29日。

母親は、これを、あっさりと承諾しました。

そりゃあ、そうでしょう。
彼女が、私のクイーン初来日公演の参戦を却下した途端、
見るも無残に狼狽し、落胆し、泣き喚き、衰弱し、ほぼ廃人と化し、
いつ首を吊ってもおかしくないほどまでに極めて激しく落ち込んだ、
わが子の姿を金輪際、二度と見るまいと強く思ったことでしょう。
当然です。

ついでに(笑)、当該自転車ツアー出発日の3日前の
1976年3月22日(月曜日)クイーン二度目の
来日公演初日の日本武道館に日帰りで行きたい、
と申し出たところ、これも当然、あっさりと了承されました。

あな、めでたや♪。
にこにこ。^^

1976年3月15日、中学の卒業式。
1976年3月18日、新潟県立高等学校入学試験日。
1976年3月22日、日本武道館、クイーン二度目の来日公演初日。
1976年3月25日、4泊5日の自転車ツアー出発。

そこそこ充実しそうな、楽しみな春休み日程が出来上がりました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−
(管理人 Sweetより)
冒頭の2行を読んだ時、ふと、キング牧師の演説を思い浮かべた事は置いといて・・。
なんて素晴らしいツアーなんでしょう!
私も小学生の頃から自転車を乗り回すのが大好きだったから、
もし近所にいたら、「喜楽院の兄ちゃん♪ 一緒に連れてって!」と頼み込んでたかも。(^^;

でも、"自転車をバラして袋に詰める"なんて、
その当時の自分には出来ない事だし、ちょっとどころか、壮大な冒険ですよね。
それに、今みたいにグーグルマップでチョイチョイってやれるわけじゃなし、
「鉄道時刻表」とか「道路地図帳」とかで入念に調べられたのでしょうね。

それにしても、そんな冒険ツアーの3日前がクイーンの来日公演とは・・・!
ついでって書かれてますが、冒頭の2行を読めば、それは納得です。
幼い頃からの夢を叶えるのがメインでしょう。


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メンテ

Page: 1 |

クイーン年表1976 其の2 ( No.1 )
日時: 2019/05/28 15:20
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

1976年3月22日(月曜日)。
朝の7時か8時頃。

前述の、新潟県新井市立新井中学校野球部主将、元かぐや姫ファンのHと
日本国有鉄道(JNR)信越本線の新井駅で待ち合わせ。
特急「あさま」に乗り込む。

産まれて初めて「特急列車」に乗った。
とてつもなく速い。
連続するスイッチバック方式の二本木駅、関山駅を
瞬く間に通過していく。

妙高高原、長野、上田、小諸、軽井沢、横川、高崎、熊谷、大宮らに
停車した列車は、その後、正午頃にめでたく終点・上野駅に到着。
山ノ手線に乗り換え、更に秋葉原で総武線に乗り換え、飯田橋駅で下車。
地下鉄東西線に乗り換えて「九段下駅」までいく手もあったが、
電車賃が勿体無いので、飯田橋から九段・日本武道館まで歩く。

今でこそ、瀟洒なビルが立ち並ぶ高級オフィス街だが、
当時は古ぼけた木造家屋が立ち並ぶ粗末な商店街だった。
日清食品が大成功を果たした「カップヌードル」に続く
屋台骨商品としてリリースされた「カップライス」が新発売された頃。
飯田橋から九段に続く目白通り沿線に、ズラリと並ぶ各商店の店頭に、
ひしめき合うように「カップライス」が陳列されていた。
この日清食品渾身の新製品があえなく頓挫したのはご存知の通り。

「牛丼300円」の看板もあった。
牛丼が300円、これは安いと思った。
牛肉の輸入が厳しく規制されていた時代である。
牛肉は今よりずっとずっと貴重で高級だった。
当日のクイーン日本武道館公演のチケット代が
SS席4000円〜C席2000円弱の時代の「300円」である。
現在450円の20本入り紙巻煙草「ハイライト」が80円の時代の「300円」。
いまなら1000円に近いと思われる。

この頃の私はセブンイレブンなど、いわゆる
「コンビニ」の存在を知らなかったはずだ。
2018年1月末に国内20,000店舗出店を達成した
「セブンイレブン」は、この1976年3月時点では
国内100店舗にすら到達していない。

午後一時頃だろうか。
日本武道館に到着した。
とりあえず迷子にならずに到着したことに安堵した。
北の丸公園の数多くの桜木は、
一週間か10日後の「満開」を目指して
ツボミをパンパンに膨らませていたはずだ。

クイーン2度目の来日公演初日の開場は17時。
時間はまだ沢山ある。

ハナシに聞く「銀座という盛り場」とやらに行ってみよう。
田舎の中学生には、池袋、新宿、渋谷よりもよほど魅力的に思えた。

九段から銀座までどのような手段で移動したのか記憶にない。
気がついたら銀座3丁目の松屋デパートの裏付近にいた。
日本中央競馬会の「銀座場外馬券発売所」の向かいにある
パチンコ屋に入店した。
中学生二人が産まれて初めて、自らの意思で入るパチンコ屋。
よく補導されなかったものだ。

100円を投入して得た数十個の小さな鉄球たちはすぐに無くなった。
パチンコ店を出た。
他に行く宛てもない。
再び、日本武道館へ移動した。
銀座から九段までどのように移動したのか、この時も記憶にない。

午後3時。
日本武道館。
すでに沢山のヒトが居た。
開場時間までまだ2時間もあるのに、
既に今までに見たことも無い、
あきれるくらいの長蛇の列。
7割以上は10代半ばから20代半ばの女性。
恐ろしく美しい女性ばかりだった。
決してお世辞では無い。
心の底からウットリした。
決して誇張では無い。

今日、ここに集った約一万人が、
英国の人気ロック・バンドの「クイーン」が
初めて日本で披露する、あの恐るべき
稀代の名曲「ボヘミアン・ラプソディ」を
ナマで観戦することになる。

3月下旬のうららかな午後。
天気はかなり良い。
日差しがまぶしかった。
それでいて、私のこのときの光景の記憶は
輪郭がハッキリしない、ぼんやりとした印象である。
美しい女性たちも、日本武道館自体の佇まいも、
それを取り巻く数多くの桜木たちも。
「春」がいつもそうであるように、
1976年3月の日本武道館周辺も同様に、
その、いつもの「春」特有の怪しい、いや妖しいベールをまとい、
自らの輪郭をあやふやなものにしていた。

15:30、16:00、16:30。
宵闇の到来の気配を微かに感じ始める。
時間の経過と共に、日差しは少しずつ弱まっていく。
そして少しずつ、空の青が濃さを増していく。
長蛇の列も、ますますその長さを増し、、
沢山の美しい乙女達も、日の陰りとともに
その美しさを徐々に増していく。

春の夕刻の、あまりにも妖艶な世界。



***

https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005938M.jpg
※写真は2019年2月下旬の銀座3丁目9番地付近で、西側方向を撮影したもの。
この写真の背後となる東側方向50m先にJRAの銀座場外馬券発売所がある。
その馬券発売所の向かいにあり、私とHが100円ずつスッた
パチンコ屋は1980年の時点で姿を消していた。


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(管理人 Sweetより)
開場30分前で、「つづく」かよ。
こりゃまた、前置きが長くなりそうだなぁ・・
前回75年シリーズが14話まであったから76年シリーズは軽く15話までいくんじゃない?
そうだね〜、
じゃ、来日公演の記事が5話で、あとの10話が自転車ツアーとか?
いやいや、ついでと書いておきながら来日公演の記事は10話で
自転車ツアーも10話だよ
えーーーっ !・・・
もしそうだったらさ・・・多分、全て斜め読みされるょ !!(爆)

という憶測が巷で流れている事は無視していただくとして・・・・。(^^;;

76年3月当時の状況をかなり綿密に調べられたようで、
停車駅1つ1つの記載から始まって、ふと目に飛び込んできた看板から
当時の価値観まで掘り下げるところは流石ですね。
それに、"魅惑の銀座"、"数十個の小さな鉄球たち"というワードだけでタイムスリップ♪
極め付けは、“他に行く宛てもない”です。まさに中学生だなぁ〜と。^^
さて、次回こそは来日公演のステージ展開をじっくりと聞ける?!・・・といいな。
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メンテ
クイーン年表1976 其の3 ( No.2 )
日時: 2019/05/28 15:22
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

1976年3月22日(月曜日)。
英国の人気ロックバンド「クイーン」。
2度目の来日公演初日。
於:日本武道館。

私とHが手にしているチケットは
日本武道館2階スタンド南側。
「S席」3000円のチケットだ。

一番いい席「SS席」は4000円だったと記憶している。
しかしながら、当時の新潟県南西部の
片田舎の中学生は4000円の席を取れなかった。
渾身の情報網を駆使しても、残念ながら、この結果。
(あやふやな記憶だが、アリーナ全席と
1階の比較的前の座席は全部SS席だった。)

2階席というのは、当時、田舎にもよく存在していて、
昭和40年代後半に、テレビの普及とともに結局すぐに
片っ端から廃業していった「映画館」の、
その「2階席」をなんとなく想像しておりましたが、
「日本武道館の2階席は、実質”3階”の席なのです。」
という説明を、当時、よく耳にした。
意味がわからない。

「2階席が、実は3階です」と言われて、
その意味を即座に理解できた田舎者は皆無だったはずだ。

つまり、日本武道館は1964年の東京五輪「柔道」種目の会場なのです。
闘技場(アリーナ)があって、そこで選手が格闘します。
格闘場には一般の観客は入場できません。
観客は一段、高いところからソレを見ることになります。
それが日本武道館の1階席です。
さらにもう1段高い席があります。それが2階席です。
クイーン公演の当日は闘技場(アリーナ)にも観客を入れます。
仮に、日本武道館の本来の1階席、2階席を
日本武道館側の言う通りに、そう認めるならば、
それを基準に申するなら、
クイーン公演の「格闘場(アリーナ席)」は実質、
「地下1階」となるのです。

こんな説明をいろんなヒトから何度も受けた。
当然、ビギャンビギャンに兄ちゃんたちからも。

何度聞いても、日本武道館がさっぱり理解できない。
「地下1階」の席、って、一体、何?。
私の持つチケットの「2階」は、実質は3階だと?。
日本武道館は一体、どういう構造になっているのだ?。
わけがわからない。

開場時間の17時を迎える。
美しい乙女たちが成した長蛇の列が、激しく動き出す。
こうなると早い。
春の宵の感傷にへったくれている場合ではない。

階段を駆け上がり、いくつか設けられた「関門」で
私とHはチケットを係員に半券をもぎとってもらう。
続いて持ち込んだバッグを強制的に開かれて、内部検査を受ける。
気分のよろしいものではない。
同行のHは、巨大な一眼レフのニコンだかキヤノンだかの、
「高性能望遠レンズ」+「カメラ」を持ち込んでいた。
ひやひやしたが、ビギャンの兄ちゃんたちの
アドバイスが活きて、無事に通過。
安堵。

日本武道館の中に、初めて足を踏み入れる。
唖然・呆然・愕然。
このときの衝撃は忘れられない。
ひたすら巨大。
びっくりした。
本当に、この広大な空間の存在には、心底、驚いた。

インドアの最も大きな施設としては
新潟県新井市立体育館や、新井中学校体育館しか
知らなかった身には、衝撃そのもの。
視力は1,2を誇っていたが、
遥かに遠いステージは霞んで見える。
遠い。
余りに遠い。
絶望的に遠過ぎる。

これだけのとてつもない広大な空間を支えるにあたり、
その空間の中において、視界を遮る支柱などが一本も存在しない。
どういう設計を施すとこうなるのだ?。
どういう力学的計算の上に成り立った建造物なのだ?。
すべてが信じられない。

ちなみに「東京ドーム」の開業は1988年。
この12年、後である。

ビギャンの兄ちゃんたちから「メンバーは米粒」に観えるよ、
とは聞かされていた。
意味がわからなかったが、
なるほど、こういうことか。

中空を飾る極めて巨大な日章旗。
違和感。

俯瞰する広大な格闘場(アリーナ席)。
1階席。
そして我々が着座する2階席。
アリーナがB1で、2階席が実質3F。
やっと、理解できた。
なるほど、こういうことか。

グッズを買うお金は無い。
私もHも、交通費しか、親からもらっていない。
銀座のパチンコ屋で使用した100円。
想定外の多大な出費だった。
惜しいと思う。

「貸し出しオペラグラス」の売店があった。
盛況だった。
金額は覚えていないけど、
1000円払って借りて、返すと700円戻ってくるとか、
そういうタグイ。
時代が平成に入る前にとっくに絶滅した商売。

私は高倍率の「双眼鏡」を持参していた。

日本武道館2階南スタンドに着席。
開場の17時直後に、すでに座席はかなり埋まっている。
今から思うと、凄いね、これは。

私の隣の席には美しいお嬢様が2名。
え、中学を卒業したばかりですって?。
我々も同じ年ですぅ♪。どうぞよろしく(猫なで声)。

お嬢様方は伊豆半島の半ば付近から来たそうで。
我々同様、親に兄弟に挙句には親戚縁者の反対などの、
前に立ちはだかる様々な、幾多の試練・苦難をひとつひとつ克服して、
この「聖地・日本武道館」に、「何が何でも絶対にクイーンを観たい」の
想いひとすじに、たかだか中学生の分際で、遥か遠き地方から、
やっとの思いでたどり付いたことだろう。
その努力には、ひたすら頭が下がる想い。
本当にご苦労様でした。

座席には、以降の、幾多の公演の宣伝チラシが5〜6枚、
まんべんなく置いてあった。
17時から着座していた10代半ばから20代半ばの美しき女性たちは、
やがてヒマをもてあます。
誰かが、先陣をきって、チラシを折った紙飛行機を、
2階席から飛ばす。

歓声。

17:30
触発された2階席の面々が、後続として次々に紙飛行機を飛ばす。
おびただしい数の紙飛行機の中、長い滞空時間と美しい軌跡を描き、
憎むべきアリーナ席に陣取る面々の中に着陸する飛行機には、
2階席の面々から轟々たる、ヤンヤの拍手が起きた。
私の美しい思い出である。(そうか?)

18:30
開演時間である。
始まる気配はない。
たまに”時代遅れの”紙飛行機が、日本武道館の空間を舞う。
わずかな嬌声。

ジラされている。
そう、わかりきっていても、成す術もない。
ヒリヒリした時間。

19:02
やおら日本武道館場内の照明がすべて落ちる。
ほとんど闇。
3,000人の黄土色の大歓声と
7,000人の黄色い声の耳をつんざく悲鳴。

この時に、私と一緒に素晴らしい感動をともにした
多くの、極めて美しき乙女たち。
いまや皆様、めでたく還暦を迎え、家族の皆に祝福され、
決して息子さんのお嫁さんにいじめられていることなく、
幸せに過ごしておられると信じたい。
強く祈る。

1976年3月22日(月曜日)。
「クイーン」2度目の来日公演、初日。
19:02開演。
やっと、「クイーン」に、マーキュリー氏に会える。

さあ、来い。

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(管理人 Sweetより)
ほょ? 噂では、きっと武道館の席解説に長く掛かるだろうと言われてましたが・・^^;
3話目にして、早くも"開演"までこぎつけましたね。(超〜長かったけど)

しかしながら・・
 >「2階席が、実は3階です」と言われて、
 >その意味を即座に理解できた田舎者は皆無だったはずだ。
はい、仰る通〜りでございます。
しかも私の場合、初めての武道館が(いい歳の)大人になってからでしたが、「?」でした。
そして・・・
 >3,000人の黄土色の大歓声と
>7,000人の黄色い声の耳をつんざく悲鳴。
瞬時に会場の歓声を黄土色(男)と黄色い声(女)の比率で聴き分けるとは流石です。
そのDNAは絶対音感を持つご子息さまにも受け継がれているのでしょうね〜
さ〜て、ライヴステージにおける「ボヘラvs預言者」は如何に?・・・(*^^)
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メンテ
クイーン年表1976 其の4 ( No.3 )
日時: 2019/05/28 15:23
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

1976年3月22日(月曜日)。
英国の人気ロックバンド「クイーン」。
2度目の来日公演初日。
於:日本武道館。

日本武道館アリーナ席、及び1階席(実質2階)の入場席価格。
4,000円。
高いですか?、
安いですか?。

この値を現在の貨幣価値に照らしてみましょう。
そうしましょう。

1976年3月時点における、長野県の最低賃金が時給238円。
2019年3月時点における、長野県の最低賃金が時給821円。

時給238円:4000円=821円:X円。
こういう図式になります。

で、4000円に821を掛けて、その値を238で割りますと
「X」の値が出ます。
小学校の3年か4年で習いましたね。

クイーン日本武道館公演のSS席は、
現代の価格に換算すれば、なんと13,798円。

新人、新参バンドのチケにしては
結構な、破格な値段ですねえ。

ちなみに。
吉野家と思える1976年の飯田橋の「牛丼300円」の看板を観て、
「安い」と思った、新潟の片田舎の中学生。

同様に計算してみましょう。
そうしましょう。

238円:300円=821円:X円。
300×821÷238=1034円。

嗚呼。
私は中学生の頃、都内・飯田橋を訪れて、
一杯「1,043円」の吉野家の牛丼の看板を観て、
「安い!」と叫んだわけなのです。

ちなみに日清カップヌードル。
1976当時の、スーパーマーケットの「特売」で
「1個100円」で売り出すと大盛況になりました。
長野県最低賃金の時給が238円の時代に、です。



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(管理人 Sweetより)
久しぶりの喜楽院さんの投稿に喜んだのも束の間・・・
やっと、"開演"したと思ったのに・・・

いきなり算数の授業ぶっこんできやがった(爆)

・・・と思ったのは私だけではないであろう事は胸に秘めたままにするとして(^^;

ちなみに、親友とやっていた交換ノートの昭和51年(1976年)の日記を読み返したら
「明日の遠足のおやつ(450円分)を買ってきた♪」と書いてありました。(当時、中3)
中学校の遠足のおやつが、「450円」って!! ・・
中途半端な金額ですが、
でも、1975年当時のML誌も450円でしたよね。(その後、500円に値上がりしたけど)
そして、クイーン二度目の来日後に出た「クイーン・デラックス号」は確か700円でした。

え〜っと、これを長野県の1976年と2019年の最低賃金で計算してみると・・・^^;
700×821÷238=2414円。

うーむ・・・1043円の「牛丼」と、2414円の「クイーン・デラックス号」・・・
値段だけ見たら後者が高いけど、
比べたら「牛丼」の方が断然高いと思う〜!^^;
(これが価値観の相違というやつ?)
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メンテ
クイーン年表1976 其の5 ( No.4 )
日時: 2019/05/28 15:24
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

1976年3月22日(月曜日)。
英国の人気ロックバンド「クイーン」。
2度目の来日公演初日。
於:日本武道館。

17:00開場
18:30開演予定。

さんざん、じらされた挙句の19:02に
やおら日本武道館場内の照明がすべて落ちる。
ほとんど闇。
3,000人の黄土色の大歓声と
7,000人の黄色い声の耳をつんざく悲鳴。

完全に闇では無い中のステージ上、
高さ3〜4メートル、幅2〜3メートルの
なにやら巨大な四角い枠が、恐らくキャスターが
底辺に備わっているのであろう物体の移動を確認できた。
数人が手で押しながら舞台の端から中央へゴロゴロと。

その四角い枠が囲むものは白いスクリーン。
スクリーンの材質が、紙なのか布なのか
ポリエチレンなのかポリプロピレンなのかは判別できない。

ごそごそとその周囲で動き回る数名のスタッフ。
スクリーンの真後ろから強烈な投光。
その間に人が立っていて、そのシルエットがスクリーンに投影される。
客席から見て、ほぼ暗闇の中に浮かび上がる、白地に黒い人影。
同時に録音テープの再生開始。
この間、発表されたばかりの「ボヘミアン・ラプソディ」の
オペラ・パートの導入部分だ。
♪I see a little silhouetto of a man

なんだろう?。この子供だましの演出は?。

1976年のこの当時に子供だった私にはもちろんのこと、
その30年前の子供にですら当たり前にソッポを向かれ、
しらけるような残念で稚拙な演出だと思った。

そのうちにスクリーンはお役ご免となり、
ガラガラと引かれて舞台の端に姿を消した。

その後、「ボヘミアン・ラプソディ」のオペラ・パートの
テープの再生音が、暗闇の日本武道館の中、淡々と延々と鳴り響く。
ざわめく場内。
手拍子も少なくない。

まさか、この公演の開始が、ボヘラの、しかもその「途中」から
始まるだなんて、全くもって予想だにしていなかった。
新潟県新井市のド田舎の中学生は、ボヘラのオペラパートを
ナマで完全再現してくれるものとばかり思っていたのに(笑)。

テープ再生は終盤へ。
♪Beelzebub has a devil put a aside for me、
急遽、やたら怒涛の如く盛り上がる武道館。
何が起きた?。
メンバーの一部が暗闇の中、ステージに躍り出たような気配。
2階席からはわからないが。

♪for me、
さらに沸きまくる武道館、一万人の大観衆。
暗闇のステージ上にすでに「4人」がいることを確信。
さあ、いよいよ、クイーンに会えるぞ。

♪for me〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
テイラー氏の超高音・超絶金属音・歴代最も高いキー。
ここまでがテープ。

(ここからはあやふやな記憶)

♪ダンっっっ。

暗闇の中、メイ氏のギターが介入する。
「ボヘラ」、ハード・ロック・パートに突入。
あれ?。ギター音、レコードと違うし。
え?、ナマで弾いてる?。
おお??ナマ??、
やった!。
やっとテープ音から解放されて
クイーンの演奏が、ナマ演奏が、初めて私の耳に。
歓喜。

そして照明、満を持していきなり全点灯。
初めて観る、ステージに浮かぶ4人の雄姿。

「出た〜〜〜〜!!!!」
私は思わず、絶叫していた。
大きな、大きな声で。
あれだけの雄叫びは、我が人生の最初で最後だ。

日本武道館内。
とにかく大歓声。
耳をつんざく大歓声。
この時の歓声は凄かった。
私はもう生涯、このレベルに至る大歓声を聴く事は二度とないだろう。
日本武道館が昼間のように明るい。
赤、黄、緑、青、白。
原色の大光量の照明群が、見守る一万人の、二万の網膜を激しくあぶる。

美しい。
これがウワサに聞く、当時世界一のレベルと評された照明設備を誇る
英国発の新進気鋭のロック・バンド「クイーン」か。
なるほど、その名声は伊達ではない。
フレディ・マーキュリーが白い衣装をまとって、クネクネ踊っている。
七色の照明が白い衣装に反映して綺麗。

♪So you think you can stone me and spit my eyes
マーキュリー氏、渾身の絶唱。
初めて聴くフレディ・マーキュリーの声。
天井から、両サイドから、背後からの、
猛烈なライティングが、その彼を包む。
世にも美しく、世にも恐ろしい一大スペクタクル。
全身、鳥肌。
日本武道館2階席(実質3階)からでさえ、そう思えた。

長髪のマーキュリー氏。
思っていたよりメイクが濃い。
なんかちょっと嬉しい。
ディーコンさんも濃いメイク。
双眼鏡で確認した。

よくわかんないけど、多分、歴史的に凄い光景をナマで見ている。
後々、孫子の代にまで自慢できる凄い光景を見ている。
そんな気がしていた。
二度と観ることはないんだろうな。
忘れないようにしっかりと目に焼き付けておきましょう。
そうしましょう。

で、この1976年の、30年くらい後に、遅ればせなから、
初めて「クイーン・グレイテスト・ヒッツDVD」における、
「ボヘミアン・ラプソディ」のプロモーション・ビデオを観た。
このときは驚いた。
1976来日公演の映像をそのまま流用しているのか?と最初、思ったくらい。
記憶していた視界と、この映像の共通点の多いこと、多いこと。
その映像のリアルさや迫力が、1976年のナマの百分の一にすら
遠く及ばぬとしても、とにかくひたすら懐かしい、そして、やはり美しい。
再び観ることが出来てよかったなあ、と、この時、しみじみ思った。


−−−−−−−−−−−−−−−−−
(管理人 Sweetより)
やっと! ・・やっと! ・・・やっと開演したぁ〜!! /~
喜楽院さん、ありがとうございます!! この時を待っておりました!!
わくわく♪・・・ふむふむ。
へぇ〜、子供だましの演出かぁ〜。でもそれも楽しそうだ♪
ギター音がレコードと違う?それはあるある!! というかレコードと違うのはギター音だけじゃないし。
でも双眼鏡でしっかりメイクまでチェックしていたとは流石! 見るとこ違うわ〜(誉めてますよ^^;)
そして・・
あれ?もぅ終わり? ・・
これだけ長いのに、オープニング(オペラパートとロックパート)だけで終わりかぁ。(爆)
あ、オープニングと言えば、
最初の “Ladies and gentlemen, a night at the opera”は、
7,000人の黄色い声で全く聞こえてこなかったのでしょうか?・・・気になるぅ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
メンテ
Re: クイーン年表1976 其の6 ( No.5 )
日時: 2019/05/28 15:25
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

私が参戦した1976年3月22日のあと、
日本中をほっつき歩いたクイーン御一行様は、
1976年3月31日に再び「聖地・日本武道館」に舞い戻ります。

その時のセットリストです。
(多少、抜けてるかもしれません)
(たぶん私が観た3月22日と、そう大差ないかと思われます)

なんでアンタが観た3月22日でなくて、3月31日なのさ?
というツッコミは、この際、野暮かつ無粋ですわよ。
ほほほほ。


1976春の「クイーン」は「聖地・日本武道館」で「3月22日」、
そしてこの「3月31日」に続き、翌日の「4月1日」にもう1回公演し、
4月2日には宮城県で公演します。
1976年4月4日は東京・両国の「日本大学講堂」での追加公演が急遽決定。

その栄光の「日本大学講堂」が、後年、取り壊されてしまい、
その跡地に、「蔵前国技館」から移転した”大相撲の聖地”、
現在の「両国国技館」が、この地にスックと聳え立ったのは、
皆様、ご承知の通り。

1、ボヘミアン・ラプソディ
2、オウガ・バトル
3、スイート・レイデイ
4、ホワイト・クイーン
5、フリック・オブ・ザ・リスト
6、ボヘミアン・ラプソディ
7、キラー・クイーン
8、マーチ・オブ・ザ・ブラック・クイーン
9、ボヘミアン・ラプソディ
10、リロイ・ブラウン
11、ブライトン・ロック
12、サン&ドーター
13、預言者の歌
14、ストーン・コールド・クレイジー
15、ドゥーイング・オール・ライト
16、レイジング・オン・ア・サンデイ・アフタヌーン
17、炎のロックンロール
18、輝ける七つの海
19、ライアー
20、神々の業(リヴィジテッド)
21、誘惑のロックン・ロール
【アンコール】
22、ビッグ・スペンダー
23、監獄ロック
24、シー・ホワット・ア・フール・アイヴ・ビーン
25、ゴッド・セイブ・ザ・クイーン

***

まあ、大変!。
「ボヘミアン・ラプソディ」がセットリストの
「1」「6」「9」、都合『3回』も登場してるし!。
さてさて、これは一体、どうしたことでしょう?。

ひとつの曲を『2分割』して演奏することこそ、
そもそも前代未聞、驚天動地、禁断のオキテ破りの事象なのに、
もしかして、ひょっとして、
その遥か上を行く『ひとつの曲を3分割』して披露したとか?。
そんなこと、たぶん、きっと、あるわけがないですよね。

ここまでオリジナルのスタジオ録音アルバムを
『4枚も』発表しておきながら、天下に冠たる
ロックの王者「エルビス・プレスリー(翌1977年8月没)」の
大ヒット曲を、こともあろうに『2曲も』(「22」と23」です)
アンコールに持って来る、その「フトコロの狭さ」、及び
その「厚顔無恥」ぶりたるや。

と、まあ、愚かな中学生は、当時は残念に思ったわけですが、
この時の「ビッグ・スペンダー」の印象は今でも強烈。
あでやかな、お着物のお姿。

で、この時の「プレスリーの曲」を熱唱しているマーキュリー氏の姿。
ミュージック・ライフ誌1976年5月号(?)のグラビアのトップに登場。

幾多の写真群の、その中の決定的な一枚。
赤白ストライプの短パン、その股間内を下方からのド・アップ。
異様にヤバく膨らんだ、向かって右サイド。
私は、未来永劫、絶対にかなわないと観念した。

ある意味、半分、悪意のこもったアングル。
歴史的瞬間を切り取った一枚のフォト。
1969年のアポロの「月から望む地球」に匹敵する価値ある一枚。

そのフォトに、1976年当時の日本全国の津々浦々の
ローティーン、ハイティーンたちは阿鼻叫喚の状態に。

−−−−−−−−−−−−−−−−−
(管理人 Sweetより)
 >なんでアンタが観た3月22日でなくて、3月31日なのさ?
 >というツッコミは、この際、野暮かつ無粋ですわよ。ほほほほ。

それで先制した おつもり? うふふ。

そんな事より、今度こそ、いよいよ本編のお話だと思ってたら・・
本編曲を全部すっ飛ばして、
アンコールでのフレディの紅白短パン(お茄子付き)ショットですかぁ〜
まぁ、でもその話題も嬉しいですけどネ♪(^^;

それにしても、
「Bohemian Rhapsody」がメドレーに組み込まれた音源って、
日本で一番最初に聴けたのが、この時の武道館初日ライヴなんですよね。
マジな話し、喜楽院さんはメドレーで初めて聴いて、どう思われたのでしょうか?

また、当時は長尺にも関わらず「The Prophet's Song」をジッと聴き入る人が多かったそうですが、
その辺り、何かしら覚えている事があれば是非お聞きしたいです 。

ぁ、ちなみに「Now I'm Here / 誘惑のロックン・ロール」は本編じゃなくてアンコール曲ですね。うふふ。
−−−−−−−−−−−−−
メンテ
クイーン年表1976 其の7 ( No.6 )
日時: 2019/05/28 15:26
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

1976年3月22日(月曜日)。
英国の人気ロックバンド「クイーン」。
2度目の来日公演初日。
於:「聖地・日本武道館」。


43年前の記憶を搾り出す。

新潟県新井市から聖地・日本武道館を
訪れた中学生の率直で素直な印象。



※スイート・レイディ

のっけから、歌い方がレコードと違ってた。
この時点でも、なんとなく、”違和感”を抱く。
クイーン。
「妖しい」ではなく「怪しい」ひとたち。
そういう印象。



※ホワイト・クイーン

不思議なもので、「レコード」とは明らかに違う、
この時の歌い方は、今でも耳に残っている。
しかしながら、ほぼレコード通りの演奏だったとの印象がある。
実に感動的だった。
何度も演奏してきた”慣れ・上手さ”を感じた。
ちなみに2年ほど前に都内新宿区四谷三丁目の
ライブハウスで行われた、ST氏率いるクイーンの
コピバン「F」の演奏による「ホワイト・クイーン」は、
1976年のこの時の”本家”の演奏を確実に凌ぐ、
極めて素晴らしい、圧巻の出来栄えでした。



※フリック・オブ・ザ・リスト

2019年の今では、とっっても大好きな曲でございまして、
サードアルバムA面ではこの曲しか聴かないけれど、
1976年当時は、この曲、正直、苦手でした。^^)ゞ
で、1976年3月22日の演奏。
ボーカルは相変らずフェイクを多用。
そしてエンディング。
このまま「谷間のゆり」に続くかな?と、ひそかに思いきや、
なんと「ブライトン・ロック」の”締め”を持ってきた。
この意外性には仰天した。
なんだかとても嬉しかった。
「うひゃーーー」と思いました。
カッコイイ!!。
これは実によく覚えている。



※ボヘミアン・ラプソディ

♪Is this the real lifeからのアカペラ部分は省略されて、
ピアノの後の♪mama〜からスタート。

マーキュリーさんがピアノの椅子に座って歌っているし。
こっち向いていないし。
へえ。
こうやって歌うんだ。

聖地・日本武道館の2階席(実質3階)から双眼鏡で、
遠く遠く離れた「コレ」をのぞく。
フレディ、綺麗。
うっとり。

30年後に観る「ボヘラのPV」よりも濃いメイクの
長い長い髪の毛のフレディ・マーキュリー氏の熱唱。
よく覚えている。
今でも脳裏にしっかりと刻まれた光景だ。
ピアノを弾く”フリ”が大仰、大袈裟。
でも、とにかくひたすら美しい。

私の観る位置からは、マーキュリー氏とピアノのほぼ真後ろに
これまたPVよりもメイクの濃いディーコン氏が立っていて、
なんだか退屈そうに、ヒマそうな雰囲気でベースを弾いていた。
・・・ボーン。・・・ボーン。
ずっと双眼鏡で始終を見つめていた。
今、「クイーン」を観ているんだな、と思った。

曲は「僕は死にたくない。二度とこの世に産まれてくるものか。」の後、
メイ氏の感動的なギターソロ。
哀切なるメロディ。
終結。
続くピアノ。
チャンチャンチャンチャン・・・

これから
♪I see a little silhouetto of a man
って始まるぞ。
手に汗。
みなぎる期待。
うふふ。
わくわく♪

スマホはおろかパソコンだのネットだのが無い時代。
この時の演目を事前に知っていた観客は
この夜の聖地・日本武道館に一体どれだけいただろう。
私を含め、聖地・日本武道館を埋める、情報に疎い、
予備知識ほとんどゼロであろう大観衆の、その大半は、
『もしかしてボヘラのオペラパートが、いよいよこれからナマで?』と、
大きな期待を寄せていたはずだ。
なにしろ、大昔の、昭和51年3月なのだから。

突如、ピアノは転調。
♪チャンチャンチャンチャン・・・
キーが下がったし。
え?。
これって・・・。

「パキ・パキ・パキ」の指鳴らしなしで、
マーキュリー氏が歌いだす。
♪シ・キプス・モーエト・シャーンドーン〜

聖地・日本武道館を埋める大観衆からヤンヤの大喝采!!。

げっっ。
「キラー・クイーン」?。

「えーーー????」
「えーーーー?????」
メドレー?。
なんで?。
マジか?。
ふざけるな。



聖地・日本武道館の、多数派であろう8千人の
失望と落胆と悲哀の「どよめき」。
「それ」を、少数派2千人の「歓喜」の大声援が
完全に掻き消した瞬間。
メンテ
Re: クイーン年表1976 其の7 ( No.7 )
日時: 2019/05/28 15:28
名前: K&K管理人(Sweet)

> 喜楽院さんへのお返事です。

> ※スイート・レイディ
> のっけから、歌い方がレコードと違ってた。
> この時点でも、なんとなく、”違和感”を抱く。

私が初めてクイーンのライヴ音源を聴いたのは海賊盤のLPレコードでした。
それも、1976年に購入した1975年のクイーン初来日時の武道館音源。
『QUEEN "STUNNING" live in tokyo』
当時、確か、1000円くらいだったのかな?
ジャケットの中に直にレコード盤が入っていて、ほかには何も無いという・・・
でもそれよりも、この時初めて聴いたクイーンのライヴに、かなりショックを受けました。

フレディってこんな声でこんな歌い方するんだ・・・という驚き。
そして、「レコードと全然違う音 」に対して凄く戸惑いました。
でも喜楽院さんの場合は私みたいに「耳だけ」ではなくて、
実際にクイーンのステージを観て、聴いているワケですから、
そりゃ〜“違和感”を抱かずにはいられないでしょうね。とてもよく分かります。

だけど、少しずつ、慣れ?ていったのか・・・
音が悪くても海賊盤でしかクイーンのライヴは聴けなかったし・・・
めちゃ安かったし・・・
いつ頃からか、海賊盤はこういうモノだと思うようになり、
クイーンのライヴもこういうものだと認識していったような感じです。
そしていつしか、フレディやブライアンのMCさえも全部覚えてしまっていたという・・・
ハマるってこういう事なんですねぇ。

ところで、

> ※ホワイト・クイーン
> ちなみに2年ほど前に都内新宿区四谷三丁目の
> ライブハウスで行われた、ST氏率いるクイーンの
> コピバン「F」の演奏による「ホワイト・クイーン」は、
> 1976年のこの時の”本家”の演奏を確実に凌ぐ、
> 極めて素晴らしい、圧巻の出来栄えでした。

ありがとうございます。
イニシャルだけでは勿体ないので(^^;、ちゃんと書かせて頂きますね。
ST氏率いるクイーンのコピバン「F」というのは・・・
ソルジャー・テイラー率いるクイーンのトリビュート・ライヴ・バンド「FLASH!」ですね。
で、その演奏曲「ホワイト・クイーン」はバンドのHPに動画がアップされています。良かったらどうぞ♪

どうも失礼しました。
では、続きです。

> ※ボヘミアン・ラプソディ
> マーキュリーさんがピアノの椅子に座って歌っているし。
> こっち向いていないし。
> へえ。 こうやって歌うんだ。

初めてクイーンのライヴを観た人はフツー、そう思いますよね。
ファンからすると当然の事だけど、
いわゆる、これも、"初めてのクイーンライヴ♪【あるある】"の1つですよね?^^
まぁ、一番よくあるのは、「私、フレディと目が合った」でしょうか? ^^;;;


> 突如、ピアノは転調。
> え?。
> これって・・・。
> 「キラー・クイーン」?
> 「えーーー????」
> なんで?。
> マジか?。
> ふざけるな。

そ・そこまで言うか!?^^;
・・・って、いや、そのお気持ちはとてもよく分りますけどね。
でも、当時の日本においては
「Bohemian Rhapsody」より、「Killer Queen」の方が人気は高かったのでしょうね。
オペラ座が出て、まだ数か月だった事もあるかもしれませんが。
ちなみに、
「Bohemian Rhapsody」がフル演奏(オペラパートはテープ)されるようになったのは、
1977年1月のアメリカツアーからです。

さて、1976年3月、「クイーン」2度目の来日公演初日において、
5分55秒の「Bohemian Rhapsody」はメドレーで短縮演奏でしたが、
8分21秒の「The Prophet's Song」はほとんどフルで演奏されてますよね?
日本武道館のこの時の反応や如何に?・・・

続きを楽しみにしています。
メンテ
Re: クイーン年表1976 其の8 ( No.8 )
日時: 2019/07/04 14:46
名前: 喜楽院
参照: https://userimg.teacup.com/userimg/6631.teacup.com/kkqfc/img/bbs/0005909M.jpg

昭和51年3月22日(月曜日)。
英国の人気ロックバンド「クイーン」。
2度目の来日公演初日。
於:聖地日本武道館。

おまちかね、『預言者の歌』。

たぶん、マーキュリー氏だったと思うけど、
「ネクスト・ソング……ソング・コールド……プロフェッツ!…ソング!」
のMCで日本武道館内は大いに、大いに沸いた。
ヤンヤの喝采。
新曲。
しかも8分超えの稀代の大作の披露である。
さすが、お客様はよくご存知であらせられる。

1975年の暮れに4thアルバム「オペラ座の夜」が出た際には、
「ボヘミアン・ラプソディ」と、この「預言者の歌」ばかりを
私は、お猿さんのように繰り返し、繰り返し、聴いていた。
ほかの曲は、どうでもよかった。
今や、名曲の誉れ高い個人的にも大好きな「’39」は、
当時、「カントリー・ロード/ジョン・デンバー」等とイメージがダブる
”アメリカン・カントリー・フォーク・ソングみたいな曲”との
認識しか無かった。
まあ、中学生だもん、しょうがない。

「預言者の歌」。”予言者”ではなくて、おごそかに”預言者”。
ノストラダムスの「1999年7の月」が、まだまだ活き活きしていた時代。
この曲は「ボヘミアン・ラプソディ」と並ぶ、
今回の公演の”超目玉曲”である。

♪オ〜、オ〜、ピポロビア〜。
歌い出す。
曲が進行する。
フェイクの多用は相変らずである。
どうか、レコード通りに歌って欲しい。
と、切に願う中学生。
演奏はなかなかのド迫力である。
素晴らしい。
ひたすら聴き入る。

やがて中間部の、独唱部分。
見せ場である。
3thアルバムA面一曲目「ブライトン・ロック」のギターソロ。
あの最初の音を2回繰り返すエコー。
当時「デジタル・ディレイ」とかと呼称されていたと思う。
「デジタル」という言葉が、勿論、今ほど普及していなかった時代。
そのヴォーカル版かや?との認識で居た、
武道館2階席(実質3階)に座す中学生。

”独唱”のエコー2回は、日本武道館内に綺麗に響いた。
タイミング、バッチリじゃん。
聴いてて気持ちが良かった。
時折、レコードとは違う旋律も織り交じる。
アドリブなのか、周到に準備されていた”アドリブ風”なのかはわからない。
ただ、その中の、ある極めて美しい旋律が、43年経った今でも耳に残っている。
私にとっては値千金のわずか「十数秒」だ。
実に素晴らしい。
昭和51年春季の日本ツアーにおける「預言者の歌」の音源を、
この3月22日の他に2種類聴いたことがあるが、この旋律は無かった。

以降のクイーンは、この種の旋律を用いた楽曲を多用する、と予感。
しかしながら、以降のクイーンでこの種の旋律を初めて使用したのは
25年後の、1991年1月発表の「イニュエンド」曲の中間部分。
It's late×3、But no too late。
そう。決して遅くは無い。待ちに待った時がついに訪れた。
クイーンの第11作「ワークス」以降の超低迷期を経て、
ついに王者クイーンの覚醒、完全復活だと確信、
更にはクイーンの偉大なる第14作、アルバム「イニュエンド」の、
そのネクストとなる「第15作」に極めて多大なる期待を寄せる。
これから。
これからなのだよ、クイーンは。

1991年11月、マーキュリー氏、逝去。
It's late×7、It's all too late。
全世界を再びあっと言わせる筈だった「第15作」は幻と化す。
未来永劫に。
これ以上ない落胆。

さて、幾多の想いが交差する”独唱”は、終了。
姿を消していたヴォーカル以外の3人が
既にステージに復帰していて、演奏が始まる。
CDで言うと全8分28秒のうちの、大体5分50秒から6分10秒あたり。
「♪じゃじゃ。…。じゃじゃじゃじゃ。…。
じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃ・・・」が、
「♪じゃっ。…。じゃっ、じゃっ。…。
じゃっじゃっじゃっじゃっ。」だし。
うっへえ、なにこれ?、すっごい違和感。(笑)
これも強烈に覚えている。
(そんなのどうでもいいじゃん)

演奏終了。
いやはや、圧倒的に聴き惚れました。
この日のステージにおいては数少ない”好演”の
ひとつだったと言えばクイーンさんに失礼だろうか。

レコードにおけるこの曲のエンディング、
1960年代後半の超人気アニメ「黄金バット」の
「こうもりさん、こうもりさん」のBGMみたいな(違)、
「♪チャラチャラチャンチャラ、チャラチャラチャンチャラ…」の
繰り返しが、テープで流れ、それに合わせてステージ上部に
取り付けられていたミラーボールにスポットライトが浴びせられる。
武道館内すべてが、黒地に白の水玉模様、くるくる回る。
これは綺麗。
うっとり。

日本武道館で演奏する人たちは、みな、こうしてミラーボールを
廻すのかな?、と2階席(実質3階)の中学生は思った。
その中学生は、以降、幾度も日本武道館に足を運ぶことになるが、
くるくる廻るミラーボールの輝きを目にしたことは一度も無い。

***

「預言者の歌」。
悲運の名曲である。

この曲同様に、かの「ボヘミアン・ラプソディ」の
余りにも圧倒的なその存在によって、その曲が本来持つべき筈の
”価値・実力・評価”が、無残に半減させられてしまった曲は
「ミリオネア・ワルツ」や「サムバディ・トゥ・ラブ」をはじめ、
枚挙に暇が無い。


−−−−−−−−−−−−−−−−−
(管理人 Sweetより)
喜楽院さん、お待ちしておりましたよ〜 1976年シリーズ再開ですね!
そして曲は「The Prophet's Song」
今回は、たった今聴いてきたかのような臨場感に溢れた内容で素晴らしいですね。
特に・・・
>「♪じゃじゃ。…。じゃじゃじゃじゃ。…。じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃ・・・」が、
>「♪じゃっ。…。じゃっ、じゃっ。…。じゃっじゃっじゃっじゃっ。」だし。
んーと、これは単に、それぞれエコーがカットされているだけですが(^^;;;
でもそのエコーがカウントされないと調子狂うという感じですかね?・・
ちなみに、この曲の邦題ですが、
発売当時は『予言者の歌』と表記されていましたが、
いつの間にか、『預言者の唄』になって、それからずっとそのままですよね。
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メンテ
Re: クイーン年表1976 其の9 ( No.9 )
日時: 2019/12/31 23:22
名前: 喜楽院

1976年3月22日(月曜日)。
クイーン二度目の来日公演の、その初日。
於:聖地日本武道館。

「炎のロックンロール」と記すべきか、
「キープ・ユアセルフ・アライヴ」と記すべきか
かなり迷いましたが、(迷わなくていいです)
この曲におけるドラマーの、ロジャー・メドウス・テイラー氏の
ドラミング・ソロは素晴らしいと思いました。

他にまともなバンドの生公演のドラムソロを、なんら聴いていない、
新潟県の田舎の中学生が、初の大物外タレのドラムソロについて、
一体何を根拠に、一体何と比較して、「素晴らしい」と思ったのでしょう?。
ああ、私は、43年前の自分に尋ねてみたいです。

あくまで曲のリズムを断ち切ることなく、
かつドラマー個人の世界を構築することなく、
その曲本来のオリジナルのビートを
保ちながら、ドラムソロを叩き続けていました。

私はこの時のロジャ氏のドラミングを観て、
正面の連打から左後方に、更に正面から右後方に流れる、
交互の連打、連打、その反復。
これも真面目に観たことはないのですが、
カヌーとかカヤックと称される、水上の個人ボート系競技の
漕ぎ手を連想させる動きをロジャに見出しました。

圧巻はアンコールにおける「ビッグ・スペンダー」。
ご存知、一般的にはエルビス・プレスリー曲と認識されている名曲。
オープニング。
ドラムのイントロ。
♪ズッダン、ズッダダン。ズンズタッツ、ズッダダン。
ドラム担当のこのお方はこの曲を、今公演の中で、
一番、活き活きと、一番、楽しそうに叩いておりました。
一度、ロジャ本人に尋ねてみたい。
私にはそう映りましたが、実際はどうだったんですか?。

実にいい音でドラムを叩いていました。

そのうちにメイ氏の、
♪ジャージャジャージャ、ジャッジャジャーの
ハードロック系ギター音の介入。

続いて、マーキュリー氏の真紅の振袖姿での登場。
一瞬、アリーナ席から湧き上がる歓声と悲鳴の交錯。
あきらかにオーバー・パフォーマンス。

これは、ひたすら、あざとい。
旺盛なサービス精神は強く理解できる。
しかし、明らかなヤリ過ぎ。
聖地・日本武道館の一万人大観衆は阿鼻叫喚。

武道館南側スタンド2階席(実質3階席)で、
お猿さんのように嬉々として強い拍手を放つ続ける
新潟県新井中学校の元水泳部長と、元野球部長。

続く「監獄ロック」。
キモノを脱いだら、紅白のストライプの短パン一丁。
上半身はハダカだし。

これには驚いた。
一般観衆の前で、上半身裸体で、真面目に
パンツ一丁に近い姿になる大人の殿方は、
当時の東京都内にはいっぱい存在していたのかも知れないが、
新潟県の地方で育った中学生にとっては、
正直、テレビで観るお相撲さん以外に知らない。
レッド・ツェッペリンのロバート・プランドだって、
時折、胸毛はあらわにしていたフォトを観た記憶は十分にあったし、
それでも、たぶん上着を羽織ってしたし、下半身も長ズボンだった。

真紅の振袖も驚異だったが、それ以上に上半身のハダカには驚いた。
あり得ない、と、正直、思った。
フレディ・マーキュリー。
大丈夫か?この人?。

筆者は、この公演の後となる、79年、81年、85年の
クイーン来日公演ツアーの、そのうちの5回のステージを、
聖地・日本武道館で観戦したが、
真紅の振袖姿のマーキュリー氏を見ることは二度となかった。

しかし、「上半身ハダカ」は、
その5回すべてで見せられたように記憶している。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(管理人Sweetより)

いつも忘れた頃に投稿してくださる憎いお方・・・(^^;もとい、喜楽院さん♪
お久しぶりです。クイーン年表1976シリーズの続きをありがとうございます。

「炎のロックンロール」と「誘惑のロックンロール」は
デビュー当時からのファンとしては、どちらの邦題も、凄く馴染み深いのですが、
いつの頃からか、邦題はあまり使わなくなりましたね。(って、どうでもいい話しですね^^;)

さて、ロジャーのアンコールにおけるドラミングについてですが、
喜楽院さんがそう感じられたのなら、きっとロジャーはアンコールが一番楽しかったのでしょう!
でもって、一番最後は、ロジャーも上半身ハダカだったはずなんですが・・・?
それも、ハダカに白のサスペンダーがめちゃくちゃ似合ってたはずなんですが・・・?

というか、フレディの上半身ハダカのパフォーマンスも、
"新井中学校の元水泳部長さん"なら、そこまで驚くことでもなかったんじゃ? (^^;
どちらかと言うと、あの「胸毛」が、衝撃的というか、
綺麗なキモノや可愛いホットパンツにあの「胸毛」が不釣り合いすぎて『有り得ない』だったのでは?^^
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
メンテ
Re: クイーン年表1976 其の10 ( No.10 )
日時: 2020/12/01 13:47
名前: 喜楽院

1976(昭和51)年3月22日(月)。
東京都千代田区北の丸公園、「聖地・日本武道館」。
英国の人気ロックバンド「クイーン」、
その2度目の来日公演“初日”。
彼らが日本で初めて、かの「ボヘミアン・ラプソディ」を
演奏したステージである。

「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」が流れる中、
フロントマンが、「ドモアリガトウ!」、
「サヨナラ!トキオ!」と叫んでいる。
曲が鳴り止み、メンバー4名がステージ上から退場し、
やがて場内の照明が一斉に点灯、公演は終了した。

その後、国鉄・飯田橋駅から秋葉原駅乗り換えで上野駅へ。
夜行の金沢行きの列車にのって、自宅のある新潟県上越地方まで
戻ったはずなのだか、まったくその辺の記憶がない。

***

中二日を挟んで、再び東京へと向かう。
1976年3月25日(木)。
午前1時頃発の上り列車に乗り、午前7時頃に東京駅に到着。
出勤途中の大勢のサラリーマン群の邪魔にならぬよう、
駅構内の隅っこで、バラして袋詰めにして運んで来た
ドロップハンドル仕様の、スポーツタイプの自転車を組み立てる。

まず、向かったのは「日本橋」。
東海道をはじめとする“五街道”の起点であり、
今回の東海道五十三次を辿る自転車旅行の出発地だ。
日本橋へ移動しながら、新宿西口の京王プラザ、三井ビル、住友ビルに
遠く及ばないにしても、新潟県上越地方じゃ有り得ない
背の高いビルが、東京駅周辺には実に沢山あるなあと感心した。
日本橋を出発、以降の5日間はすべて朝から夕方まで、
国道1号線を、ただただ、ひたすら走る。

初日は神奈川県・箱根早雲山に宿泊。
2日めは静岡県・三保松原、
3日めは静岡県・浜名湖畔、
4日めは愛知県・名古屋市内にそれぞれ宿泊。
そして5日めの夕方、京都市・三条大橋に到着。
6日めは北陸本線の特急列車に乗車、
金沢経由で新潟県上越地方へと戻った。

昨年、1975年4月19日のクイーン初来日公演初日の参戦を、
私の母親の、修羅の如く強い猛反対を受けて泣く泣く断念し、
捲土重来の想いで成し遂げた今回の「クイーン2度目の来日公演観戦ツアー」と、
子供の頃からの憧れだった「東海道五十三次自転車ツアー」、
二つの「祝!中学校卒業の記念旅行」を無事に消化、
その後はしばらくフヌケた日々を過ごし、
1976年4月、私は新潟県上越市内の高等学校の入学式の日を迎える。

***

配属されたクラスは1年7組。
一学年は全7クラスなのだが、この7組だけが全員、男性で構成されている。
とにかく落胆した。
選択科目で男性に人気の高い「美術」を選んだせいで、この羽目になった。
女性に人気の高かった「音楽」を選択しておくべきだったとホゾを噛む。
事前に情報をよく収集しておけば良かったのに。
2020年の今でも後悔している。

入学式を終えた直後の休憩時間に、すぐ近くにいた初めて会う級友と雑談。
どうしたわけか「ロックの話」となり、更には「クイーン」の話題になった。
ここで私は、「この間のクイーン来日公演、武道館で観てきた」という旨を告げる。
それを聞いた級友は、「武道館は暑かっただろう?、暑かっただろう?」と
何を思ったか、複数回、尋ねてきた。
3月の日本武道館の館内が、他人様から心配されるほど暑いわけがない。
何を言ってんだろう?と不思議に思った。
まあそれだけ、あちこちの音楽雑誌に書かれた
「ライブ会場のレポート記事」なんかで、毎度毎度、
『場内は超満員で熱気ムンムン』などという表記が
パターン化していたからに他ならない、と、この時に思った。
その級友が、彼と同じ中学校の同級生だった友人に声を掛ける。

「おーい。コイツ、日本武道館でクイーンを観てきたんだってよ。」
初めて会って間もない他人から、いきなり「コイツ」呼ばわりされたのには
強い違和感を覚えたが、まあ、しょうがない。我慢、我慢。
わざわざ声を掛けられたその男は、
そうであるからには間違いなくクイーン・ファンであろう。
男は私に近づき、私に向かって、いろいろな質問を始めた。
問われた、3月22日の公演の模様を、私は彼に詳しく説明した。

私はこの頃、将来は都会に出て働くのではなく、長男ということもあり、
実家から通える上越市内の、ある老舗名門企業に就職したい、という
漠然としたイメージを持っていたのだが、話を聞いてみるとこの男は、
その企業における次期社長となると約束された人物の長男だった。
仮に彼の名前をMとしておこう。

私たちはクイーン繋がりですぐに仲良くなった。
似たような苗字なので、「アイウエオ順」の座席配置であるため、
席がトナリ同士になったことも、それに拍車を掛けた。

Mはクイーンのデビューアルバム「戦慄の王女」から、
最新作の「オペラ座の夜」に至るまでの
クイーンのアルバムすべてを、上越市の国鉄・高田駅前の
老舗レコード店「多田金レコード」で購入しており、
更に海賊版のクイーンの「ライブアルバム」2枚を所有していた。
そんなアルバムを持っていることを、とにかく凄いと思ったし、
そもそも、そんなアルバムが市中に存在し、
かつ、出回っていることさえ私は知らなかった。

早速、そのライブアルバム2枚を貸してもらい、聴いた。
先日のライブと同じような演奏の曲がたくさんあった。
アルバムのタイトルは、2枚ともに全く記憶にない。
ただ1976年時点での、ド田舎の高校生が入手できた
クイーンの海賊版ライブアルバムなど、今なら
その気にさえなれば、すぐに限定することが出来るだろう。

Mから、その年の夏に、アルバム「オペラ座の夜」を借りた。
私は、いつものカセットテープではなく、ちゃんとしたレコード盤で、
比較的しっかりしたレコード再生装置で聴きたかったのだろう。
レコードを借りてから数日間、自分の部屋に保管しておいた、
そのレコードが、夏場の閉めきった空間の暑さで変形し、
盤が反った状態になっているのを見つけたときには肝を失った。
当該アルバムの価格である2,300円を弁償しなければならない。
大金である。高校一年生が、すぐさま用意出来る金額では無い。
反ったレコード盤はガラス板に挟んで日向に出して置けば元に戻る、
という話は以前に聞いたことがあったので、ダメ元で試してみた。
どこから裸の板ガラス2枚を調達したのか、今では全く記憶にないが、
塩化ビニール製のレコード盤の、元通りの再生は不可能だった。

母親に理由を話し、2,300円を都合してもらい、Mにお詫びしながら、
2,300円を渡そうとしたが、彼は、笑いながら、頑なにそれを拒んだ。
何度も何度もお金を受け取ってもらおうと試みたが、彼は笑ったまま、
「いいよ。いいよ。」と繰り返すだけ。

以来、「オペラ座の夜」の白いジャケットを見るたびに、胸が少し痛む。
彼とは以降、40年以上、年賀状のヤリトリを続けているが、
いまだに会う機会はないので、2,300円はずっと返しそびれたままだ。

1976年の秋になると、クイーンの新作アルバムの噂が巷を駆けめぐり始める。
9月18日にロンドン市内の巨大な都市公園、ハイドパークに
20万人を集めたクイーンによるフリー・コンサートの模様が記された、
音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の記事を貪るように読む。

「新曲“テイク・マイ・ブレス”が披露された。」と書いてあった。
雑誌グラビアの“レオタード姿のボーカリスト”のフォト数枚を眺めながら、
あの稀代の傑作「ボヘミアン・ラプソディ」に続く、
5作目の“ファースト・シングル”だろうか?、と推察した。
私は「早く聴きたい。」とため息をついた。

「戦慄の王女」から「クイーンU」への、クイーンの大きな成長、
更にそこから「シアー・ハート・アタック」への物凄い進化の度合い。
そしてそして「オペラ座の夜」という恐るべき大傑作を生みだした、
現時点では、いまだに“底が割れていない”彼らの跳びぬけた才能。
スタジオ録音5作目には、更に凄いレベルに到達する可能性が残っている。
ホップ、ステップ、ジャンプ!と来て、さて、次なる5作目は一体・・・?。

その超期待の5作目アルバム「華麗なるレース」の
日本国内発売は、1977年1月9日。
翌年へ持ち越された。

1976年から1977年にかけての冬季、
新潟県上越地方は記録的な大豪雪に見舞われる。

(クイーン年表1976年・終)

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(管理人Sweetより)
喜楽院さん、クイーン年表1976シリーズの続きをありがとうございます。
かなり久しぶりだったので「QFB-ARCHIVES」でお復習いしてきました。^^

さてさて、
喜楽院さんは本当に、ご友人に恵まれていたのですね。
だって、『オペラ座の夜』を発売日に購入した「友人Tくん」から最初に借りてますよね?
そして今回新しく登場した「Mくん」からも『オペラ座の夜』を借りたということですよね?
しかも今回は借りておきながら、放置して盤を変形させるという、あり得ない仕打ち付き!!

。。。私ならそんなヤツが“武道館にクイーンの来日公演を観に行った”なんて聞かされたら、
「コイツ」どころか、「この野郎〜!」って呼ぶかも。。。←心の声(^^;

とにかく、個人的には1976年4月の時点でクイーンのアルバム4枚と海賊盤まで購入していた「Mくん」は
物凄ーーーく貴重な存在だと思います!!!
なぜなら、『華麗なるレース』のライナーノーツに大貫氏が記載していたように
76年当時、クイーンファン(女子)は本格派ロックファンから白い目で見られていたし、
クイーンの音楽性までバカにされて攻撃されていたからです。

ということで、ビギャンの兄ちゃんたちは4枚目でクイーンから離れていったものの、
友人TくんとMくんの今後のクイーンとの関わりにも期待しています。あ、喜楽院さんもね。

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メンテ

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