掲示板アンケート集計結果/No2

※1991年11月24日、
その日あなたは・・?

FREDDIE MERCURY
We Will Remember You Forever


丁度結婚直前だったため、とりあえずそれだけを目標に生きていました。
信じられなかった。だからロンドンに行けば確かめられるかと思って、
フレ邸に行ってみた。やっぱり家を見ても、壁のファンの言葉を見ても、メアリーさんに聞かされても、信じられなかった。 まだにどっか信じていないところがある。それはやっぱり「私のフレちゃん」が不滅だから!だけど、Brianの新譜が出たりとか、"No-one But You"みたいな曲がリリースされたりすると「あ、そうなんだよな〜…もう会えないし、新譜も出してくれないし、
ヘンなコトして脅かしてくれないんだよなぁ〜〜」と、気がつくのです。

前日の発表のニュース(エイズ感染の発表)が、スポーツ新聞の芸能欄を埋め尽くしていて・・・ 仕事中の車の中でラジオを聴いていたら・・・
「フレディ・マーキュリーさんが・・・現地時間・・・死亡しました・・・。」
言葉が出なかった。
ダイアルをすぐさFENにしてしばらくすると・・・
「I WANT IT ALL」がかけられた・・・。
そのあとは何分おきにQUEENの曲が何曲か流れていた・・・。

車を止めて泣いた・・・。

朝日新聞を朝刊、夕刊とも見ました。
朝刊に、「英ロック大物、”私はエイズ”」のタイトルを見たとき、
私は衝撃をうけた後、実は不謹慎にも内心ちょっとだけわくわくしたのを覚えています(ごめんなさいね、みなさん)。
というのは、そんなにすぐ死ぬなんて思っていなかったんです。これからフレディは残された時間(あと5,6年は生きてるだろうなんて勝手に思ってた)を今まで以上に真剣に創作活動に費やし、ロック史に残る名曲をバンバン世に送り出して、充実した余生を送るのだろうと思っていたのです。
加えて、エイズその他のチャリティ活動も精力的にこなし、いろんな意味で世界中から脚光を浴びるミュージシャンになる(ここのところは今考えるとちょっと嫌ですが。。。病気を利用して名を売るということだから)のだろうと思いを巡らし、いずれにしてもこれからクイーンの周囲は活況を呈するだろうと、そう思ったのでした。

だからこそなおさら、夕刊の「クイーンのヴォーカリスト、英のマーキュリーさん死去」には、全身が凍りつきました。とにかく、大変なことが起こった。おれにとって一大事が起こった。でも、今おれは何をすればいい? と、途方にくれて座り込んでしまいました。
思い付いたのは、とにかく新聞を買いあさること、一般紙も、スポーツ新聞も。
それから、当時部屋に3台あったビデオをフル稼動させて、テレビのニュースを全チャンネル片っ端から録画しました。
しかし、テレビニュースでのフレディの扱われ方は、必ずしも納得できるものではなかったし、メディアがこぞってクイーンネタを取り上げたのも、やっぱりエイズにたいする好奇の目によるものなんだろうなと思って、暗い気持ちになったものです。
とにかく、フレディの訃報に接しても、自分はなにもできず無力だった。それが悲しかったです。クイーンの曲を片っ端から聞きまくる気分になったのは、僕の場合、1ヶ月くらい経ってからでした。

それから3日間ほど忙しくて、世間と隔絶していて、
ラーメンやさんで読んだ新聞で訃報を知りました。なんて間抜けなんでしょう・・・
自分の人生に大きな影響を与えた人の訃報を、チャーシュー麺と餃子を前にして知るなんてね。死んじゃったという実感って言うのは、まだないですね。
生きていることすら、同時代を過ごしたことすら、にわかに信じられないくらい、
なんだか大きな人のような気がします。

ニュースステーションで久米 宏氏の口から、フレディの死を聞いたとき、まず思ったのは、「ああ、これでフレディは願いの通り、伝説の人になったんだなあ。」でした。
さて、翌日。ショックから少し立ち直り、私は韓国から来ている留学生達が開いている「ハングル語講座」に出席したのですが、その中の、柳(りゅう)君という二十歳の男の子の服装が変なのです。
冬の北海道、しかも吹雪。
どう考えても、半袖のTシャツの季節ではない!なのに、なのに!? よく見ると、
それは、「ホットスペース」のジャケットがプリントされたTシャツだったのです。
私は、フレディを指差して言いました。
「この人、昨日亡くなったのよね?」
柳君は答えました
「彼は、僕の神様でした。ですから、今日はこれを着て来たのです。」
私と柳君は、手を取り合って、泣いてしまいました。

キッチンで、夕食の準備してたら、クイーンの曲が流れてる事に気が付き、
「あれ? CDかけてたっけ?・・いや、ちがうぞ・・うん?。。テレビからだ!!」とリビングに駆け寄って行った時は、既にCMになってしまい、やっと、その日の夜、11時のニュースで知りました。
心臓がすっごいドキドキしてきて、それから、きゅ〜んって、なって、それから、身体を動かす度に、震えてるのが分かりました。

その日は、ずっと明け方近くまで、そんな自分を落ち着かせ様とレコードを聴いてました。
で、それからずっと悪い夢だと、信じないようにしてたけど。。でも

「追悼コンサート」を衛星テレビで観た時に初めて「フレディは本当に、もういないんだ」って実感した。フレディが今にもひょっこり出てきそうな気がしてたのに、ブライアンが「ライザー!!」って紹介した声が、裏返った瞬間、どわっ〜って涙が出てきて、その中継の後に、編集テープで今までのフレディが映し出され、ラストに、フレディのウィンクシーンで映像が止まった時、大泣きしてしまいました。
「クイーン」はもういないけど、自分の中では、フレデイがその素敵なウィンクした表情で、生き続けてます。

走った。新聞を買った。
ロウソクに火を灯し「WHO WANTS TO LIVE FOREVER」を聴いた。
それ以後は「HOW CAN I GO ON」を聴く度、うるうるしてました。
今でもこの曲が一番弱いです。

知りませんでした。
この数週間前に、やっと初めて自分でクイーンのCDを買って、さあ、これから全部集めるぞ、ライブはあるのかな?とはりきってました。すれ違ってしまいました。
で〜〜〜〜〜〜〜〜も、ふれれーは、たまに夢に出てくれるし、こんなに好きなんだから、きっと彼も私を好きでしょう

小学校でギャーギャー言っていたと予測されます。
フレディの死を知ったのは、4年前くらいで、エイズについての授業でかすかに触れたってかんじでした。そのころはまだQUEENを知らなかったし、ふ〜ん、怖いビョーキじゃ、などと思っただけでした。で、ファンになってから、あのおじさんだよー、ちょいとまっておくれよー、ということになりました。でも実感とかってずえーんぜんなかったです。近頃になって、LD(QUEENのフレディの亡くなるまでのすべて、みたいなので、名前忘れちまいました。)をいとこのうちで見ていたところ、ブライアン氏が「輝ける日々のビデオの最後のI still love youでフレディは別れを告げているんだ。」みたいなことをいっているのを聞き、おう!ノー!!とフレディの死を感じました。その後3日間はご飯がぜんぜん食べらんなかったです。そりゃ、ちょっとは食べたけどー。
だから“輝ける日々”を聞くのは結構キツイもんがあります。
でも、私は妄想狂であり、、フレディといろんなことができるため(!?)どうにか生きていけます。
そう、彼はいつまでも心の中にいるんサ!!え〜〜〜〜〜〜ろっっ!!

朝フレディが自らAIDSであることを宣言したのをTVニュースで知りショックを受けましたが、会社の同僚が「彼ならAIDSなんて吹き飛ばすぜ」と言って慰めてくれました。
しかし会社から帰って彼の死を知り、ほんとうにショックでした。
たしか、あちこちに電話をした記憶があります。次の日、スポーツ新聞に目を向けると、フレディの死が一面で出てるではありませんか!!
その事実がいったいどういうことなのか知りたくて、そのスポーツ新聞を買い仕事中も、なんども、なんども読み返していました。ほんとうにショックでした。

私は当時、まだQに興味はなく、その時どうしていたかあまり定かではありません。
しかし、その年の12月に彼(現:ダンナ)とCDを見に行ったとき、
そう言えば、フレディ死んじゃったんだよね」と彼が言い、「特集コーナーが作られていたふれでのCDを買いました。彼はUKものが好きで、その中には一応Qも含まれていたようです。まさか、それから3年後に、私がこんなにもはまるとは思いもしませんでした。’94年に友人にQを聞かされて、すごく好きになり、もうそれからはQの曲、ふれでの事、なんでもかんでも知りたくてビデオやCD、本を一生懸命GETしました。「Made In Heaven」のビデオを見たときは涙が止まりませんでした。
それにしても、興味を持つのが遅すぎたことをこんなに悔やんだ事は、ありませんでした。だって、私の年齢なら、リアルタイムでファンをやれたのに…。
(いまさら、後の祭りですけど)

私は当時中三でした。クイーンの名は知っていたけど、プリンスと混同していて、
ま、どっちでもいいわ、と、洋楽にはまったく興味なく、唯一、放送部の部室にあった、映画「里見八犬伝」の曲がお気に入りの、単なるお気楽なヤツでした。
――それから数年後の11月24日、ラジオでUK特集がありました。
私はまっ先にQUEENのことを話し、今日はフレディの命日だって言うだろうと思っていたら、なんと、9時間もあったその特集、結局最後の最後で、
「そういえば、今日はQUEENのフレディ・マーキュリーの命日だったんですよ!」と
まるで思いついたみたいに、そのDJが言ったので、私は思わずラジオに「知らんかったんかい!」と突っ込んでしまいました。ファックスも何度も送ったのに〜
でも、たくさんのリクエストやファックスが殺到していたらしく、
最後に一曲、QUEENの曲を流してくれました。その曲は「愛にすべてを」でした。
9時間待ってやっと流れた曲に、私は思わず涙しました。というのも、UK特集なんか大きなこと抜かして、このままQUEENの曲が流れずに、終わったら、もうこの国っておしまいや……と訳のわからんことを思いながら聴いていたので、その一曲に救われた気分でした。そして、そん時かかった曲は、今までの特集で流れた、どの曲より素晴らしく、もしかして、もうQUEENの曲は古くさくなって、誰も気にとめなくなってしまったのかもしれない……なんて思った自分が恥ずかしくなるくらいでした。
で、その瞬間、フレディがもういないということを思い知らせれ、初めて、すごい人を失ってしまったんだ……と無念さと、悔しさと、寂しさとで、もう何年も前の過去の時間を思って泣きました。

朝の新聞で、フレディが前日にエイズであることを発表した事を知り、心配していたことが現実になった。ただ発病してもしばらくは、大丈夫だろうと思いつつ、何故今頃、公にしたのだろうと少々の不安が・・・まさか・・・。夜、姉からрェあり、朝の新聞の件だろうと、途中まで亡くなったことを知らずに話をしていましたが、姉の様子があまりにおかしいので、その時わかってしまいました。電話口に立っていられないほどの衝撃です。あのJOHN LENNONが射殺されたとき感じたショック以上のものでした。JOHNは神様で、FREDDIEは私にとってもっと身近な存在だったからかもしれません。死を知ってすぐ、主人が帰宅したので、口をひらいたら涙があふれ止まらなくなると思いじっとがまんしてその場を耐えました。きっと、機嫌がわるいなと感じたでしょう。その時ほどひとりで思い切り泣く場所が欲しいと思ったことはありません。
でも、その時よりもっと悲しかったのは、翌年の追悼コンサートでフレディがその場に居ない事実を認めなければいけなくなったことです。

あの頃なぜかテレビや新聞を見ていなかったので、全く知りませんでした。
2日くらい経って妹から電話がかかってきて、あまり変わり無く馬鹿話していた私に気付いたようで「知らないの?」ってふれさんの事をきりだされて。。。。。絶句でした。
でもあまり実感がなかった。
もういないなんて。元々人間離れした(?)人だと思っていたので別の世界の出来事のようで涙も出なかった。心にひっかかっていても仕事を続けていました。1年くらい経ってじわじわと寂しさが出てきました。
7年も経った今の方が涙が出てきます。

私は知り合いから聞いて「遂にフレディまで」という、やり切れない気持ちになりました。その日は個人的に、というよりも、「人類は、何ていう才能と惜しいキャラクターを失ってしまったんだろう」という残念さと、 「ああ、もうこれからは、今までのレコード聴いたりやビデオを見るしかなくなってしまったんだ。」脱力感が強かったです。
それで、半分仕事もあったのですが、発売日を待ってNMEのフレディ死亡記事を一気読みしました。家で、一人生前のフレディの話を読んでいるとき、曲がLOVE OF MY LIFEになったら、涙がボロボロ出てきて、「はっきりとした存在感で、こんなにも今私を感動させてくれている、この人の歌を生で聴く事も、この人の歌う姿をこの眼で見れることも2度と無いんだ。」って突然ハッキリ理解したのです。
それからは目の前の文字は読めませんでした。

僕は中学3年のときでニュースで聞いて、ショック受けて、誰かに伝えたかったのですが、学校にQUEENのファンが居なかったので、その重大なニュースを理解してもらうために学校に『Greatest Hits』のCDを持っていった記憶があります。
その日はあんまり実感がなく、あとあと雑誌のコラムなどを読んでいくうちに『あぁ〜〜〜・・・・』ってため息が出てくるといった感じでした。

その当時はまだ中学生で、これといって何かをするという事はしませんでしたが、ライブに行かなかった事を大変後悔していました。
でも、なぜか彼が他界した実感が今でもありません。

彼の死を知ったのは、自分の部屋でボーっとテレビを観ていた時でした。
日テレにチャンネルを合わせていて、ちょうど夜の11時前だったと思います。画面に「きょうの出来事」の前宣伝のために現れた桜井良子が「クイーンのボーかリスト、フレディ・マーキュリーさんが亡くなりました。」と一言告げて画面から消えたのです。
新聞を読んでいたので、フレディがエイズに罹っているという事は知っていたのですが、まさかその表明からこんな急に死んでしまうとは思ってもいませんでした・・・。
ともかく、なんだかわからないけど、すご〜〜〜くショックで、すぐさま妹に電話したのを覚えてます。その時の妹の言葉が印象的で、「私って、ずうっとロジャーファンだと思ってたけど、今日、すごいフレディファンだったということに気がついた・・・。」というものでした。そして、「私、すごい、フレディのこと、好きだったんだ・・・。」と言った言葉を聞いて、私は涙が止まりませんでした。その妹の言葉はまさに私自身が思っていた事だからです。正直言って、彼を失った事で、これ程自分がショックを受けるとは思ってもいませんでした。クイーンは好きなバンドだったけど、その頃はガンズとかにハマッてて、それ程、気にかけていなかったのです。しかし、その夜、いかに自分が、クイーンがフレディが大好きであるかを、こんな形で噛み締める事となったのです。
ともかく、慟哭の一夜を過ごしながら、何故か「ロンドンに行かねばならない!!」と思いたったのでした。これほど私に素晴らしい音楽を与えてくれた彼に、せめて一輪でもいいから献花したいという思いでした。
その後、妹とロンドンの彼の自宅を訪ね、私が彼に一番合うと思うスイセンの花を献花してきました。もちろん、「Thank you so much!!!」のカードを添えて・・・。

別れの準備をする時間は、たっぷりあった 多分・・・。
彼がHIVに感染しているという話は、1986年くらいからあったと思う。ただ、他にも例えばデビッド・ボウイの名前などもささやかれていて、悪趣味な噂に過ぎないと思われた。ただ凄くドキッとした。思えば、クラウス・ノミが亡くなったころから、その懸念はずっと心にあったのに、自分でそれに気づかないふりをしてきたので、、、
そして、88年の夏頃、イギリスにいる友人からフレディがすでに発症していて顔や手足にカポジ肉腫が出ているという話を聞いて、頭を殴られたような気持ちがした。(彼は音楽業界の人なのでただの噂じゃ無いのはすぐ解った)
頭のなかに、「フレディのアホ、子供みたいに無防備すぎるんや」という言葉が響いていた。その後もその人から彼に関する胸の痛くなるような情報が伝わって来て、だんだん面やつれしてきた彼の表情とともに彼の新しい歌の聞けなくなる日が遠からずやってくることを思い起こさせた。
そして91年、件の友人から「彼は今年のクリスマスぐらい迄しか生きられないらしい」と聞いた直後「THE SHOW MUST GO ON」のクリップを見て、まるで臨死体験者の語るフラッシュバックみたいな内容に号泣してしまった。
そして運命の11月24日、
前の日のHIV感染宣言に続いてあまりにあっけない彼の死・・。
ただその前の何週間か、泣き暮らしていたので、不思議と悲しいというより、ほっとした
ああ、苦痛から解放されたんだな、そう思った(すこしは泣いたが)
人気の頂点での早逝・・・・そんな言葉にあこがれた事の無い歌手や俳優や画家はいないんじゃないかと思う ケンジントンの気取り屋だった頃の彼にそういう予言をしたら彼は多分嬉しがったに違いない
華やか事が好きだった彼らしい退場の仕方だったな と、思う

丁度中学3年の期末テストの時でした。
ラジオからやたらとQUEENの曲が流れるので「変だな?」とか思っていて。
翌日のNEWSで知りました。
その日から、僕のQUEENの探求活動が始まったのです。

働いていました...
そして次の日、何げにつけた車のラジオから「フレディがなくなって残念だね〜」というようなDJの言葉が聞こえ、一瞬「うそだ」と思ったことを覚えています。そして職場でほかの人達にきいたら皆知っていて本当だったことがわかりました。
本当に本当に信じられなかったんだよ...

前日のニュースで、「フレディーマーキュリー氏がエイズと公表」と聞いたときには、やはりショックでした。しかし、「これで、逆に、落ち着いて、療養しながら、細く長く(少なくとも数年間は)、作品を作ってくれるだろう」と考えていたのです。ですから、翌日に死亡したと聞いたときには、ただ「!!」という感じでした。実は、何からニュースを聞いたか(テレビか新聞か)全然覚えていないのですが、なぜか、離れて暮らしている兄に、「死んじゃったよー」と電話したのを覚えています。
結局、その後も、死去が信じられない、というよりは、「実感がわかない」という持ちが続いたのですが、例のメイドインヘブンのCDの最後の隠しトラックで、マーキュリーの笑い声が聞こえてきたときには、不覚にも目頭が熱くなってしまいました。

たしか次の日にスポーツ新聞で記事を読んだと思います。
やっぱりかーって感じでしたね。仕事中の昼飯時で、先輩とあれこれ感想を言ってました。友達の間では、80年くらい以降のクイーンはあまり評判がよくありません。
でもオレは、INNUENDOが大好きです。特に輝ける日々が好きです。
あのモノトーンのビデオ、泣けるじゃあーりませんか。

通勤の途中、新聞を買いあさり、喪服で会社に出た。顔は、泣いたためボロボロ、
この後、一週間喪に伏した。

日付に自信がないのですが、出産予定日(次女)であったとおもいます。
家内は実家でしたし、生まれる気配すらないので仕事して一人アパートで酒飲んで寝てました。
前日に「自分はエイズキャリア・・・」という発表があったを知ってたので、それは「あ〜やっぱり〜」と思っていたのですが、訃報を知ったのは翌日の朝刊(地方紙)で寝ぼけ眼でその記事を観たとき「え〜?、え〜??」ってかんじで、実家の家内にそのことを電話したら「それどころではない」とひどくしかられた思い出があります。

新聞の記事は顔写真入りで87年頃の髭無しタキシードFreddieでした。
(この新聞社大物でもよほどでないと訃報に顔写真を入れない)
みなさんとは違って訃報を聞いて悲しいと言う気持ちにはなりませんでいた。
失礼ながら「なるほど〜、Freddieらしいなあ〜」と感心してしまったんです。
人気はいつしか必ず落ちてくるだろうからヒット曲も出せずボロボロになってもまだ唄ってる姿は想像したくもないし(賢者なのでその前に解散するだろうけど)、またJohnみたいに子供に囲まれてのアットホームパパなんて天地がひっくり返ってもあり得なかっただろうから、
強烈な個性でカリスマ的存在のまま芸術を数多く残して、短い人生に幕をひくことになったことは、 まさしく「Freddieらしいなあ〜」と、感じがします。
それだけ自分にとっては「神」なんです。


(上の大字の部分は、私が凄〜く共感している部分です。)

これらの貴重な経験や意見が、いつしか世代を超えて、
これからのファンの方々にメッセージとして届けられ、
彼等の音楽が聴き継がれていく事を心から願っています。

アンケートに応えて下さった皆様、どうもありがとうございました。
kayo