幼児期
あと10グラム小さかったら未熟児だったという私は身体が小さく、しかも少食だった。
姉がお菓子の取り過ぎで虫歯だらけになってしまい、それを教訓とした親が、
私には一切、チョコやキャンディー類のお菓子を与えなかった。おかげで、歯だけは丈夫で、
現在でも虫歯はない。 そのお菓子の代りに、よく食べていたのが梅干し!
恥かしい話、種を割って中の白い実まで好きで食べていた。キャンディーみたいに、いつも口に含んでいて、3度の御飯より、梅干しが大好きだった。
小学校入学
1960年代の学校給食方針として※「給食は絶対、残してはいけません」という恐ろしい決りがあった。
当時の給食メニュー【 おかず。食パン3枚。マーガリン。牛乳。】
3月生れの私は、クラスで一番身体が小さかった。当然、このメニューを全部食べられるわけがないっ!
放課後になっても、机にはお昼に配られた給食がそのままになって冷たくなっている。私は牛乳を少し飲んだだけで、
後は、ほとんど残して泣いていた。もうひとり、全部食べられなくて居残りさせられていたのは、肉屋の息子。
肉嫌いで、肉だけ残したまま彼も泣いていた。先生から説得されても、強い口調で怒られても、最後まで食べられずに、
汁もの以外を袋に入れて、持ち帰りとなった。
彼とふたりで下校してた時の会話・・。
彼「ボク、毎日“明日は給食で肉がでませんように”って、お祈りしてる・・。」
私「ふーん、私、給食が毎日あるんだったら、学校行きたくない・・」
彼「家に帰っても、お父さんとお母さんが、肉を食べなさいって、怒るし・・。」
彼、・・また泣き出す。
私・・彼の頭を撫でて、ヨシヨシする。
ほとんど毎日の様に、この彼とふたり、放課後まで残されて、泣きながら帰宅する日が続いていた。
ある日のメニュー
【ぜんざい。食パン3枚。マーガリン。牛乳】
気分が悪くなった・・・教室中に「あずき」の臭いが充満していたからだ。
私は死ぬほど「あずき」が大嫌いだったけど、クラスの皆は異常に喜んでいた。・・不思議だった。
耐えられなくなって、先生に「気持ち悪いので食べられません」と訴えたら、ちょっと笑ったような顔で私の顔を覗き込むように
「ほんとかなぁ〜?」と、疑われた。
彼を探して見た。
彼は喜んでて、笑ってた。・・・・私は、ひとりで、ずっと、泣いていた。
小学校2年生の春
給食がない土曜日以外は、学校に行くのがとても苦痛だった。先生に「お腹の調子が悪いので給食は食べられません」と嘘をついたりしてたけど、
とうとう、「給食を全部食べなさい」という言葉におしつぶされて、登校拒否児になってしまった。
「食べないと、大きくなれないよ」という母親の言葉にも反発して、「給食があるんだったら、学校行かない!!」という私の訴えを2日後に、
やっと母親が聞き入れてくれて、先生に相談しに出かけて行った。担任の先生との話し合いの結果、私だけ「お弁当」という事になった。
小学2年〜4年生。
お弁当の中味【梅干し4〜5個。ヤクルト1本】
学校に行くのが、急に楽しくなる。「たったそれだけで平気なの?」って、
クラスの友達の心配顔をよそに、キャンディーを食べてるように梅干しを口の中で転がす私。もちろん、笑顔で。
4年生の終わりになると、給食に「御飯」が入ってきた。それと、
牛乳に「ミルメーク」というコーヒー牛乳になる素の「粉袋」が出てきた。しかし、時々メニューに、すごい取り合わせの日があって、
献立を考えてる人の顔が見たい!とか思っていた。
小学5年生〜1970年代の学校給食方針が変わる。「どうしても食べられなければ給食を残してもいい」・・と。
その日から、私の「お弁当」は姿を消した。母親も安堵したことだと思う。
しかし「給食を残してもいい」と言っても、食べられる人に分けてあげて、自分が食べられる分だけを配膳するという事で、
私は、ほとんど友達に配りまわっていた。
小学校を卒業する頃になってもクラスで一番身体が小さかったけど、元気いっぱいの私でした。
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