written by SweetK.

1999年、 1月
先日、友達からビデオを借りた。
「テルマ&ルイーズ」という映画。随分昔にテレビで見た事はあったけど、
その表紙の、女性二人の表情に、なんとなく惹かれてしまった。
いつもの様に、ビデオを観る時は、自分一人きり。
いつもの様に、ソファに深く座り、再生ボタンを押した。


夜明け前の、真っ暗なハイウェイを二人が車で逃走している場面・・・
テルマが言う、「いい気分だわ、ずっと旅行に憧れていたのよ」
風に髪を靡かせてルイーズが微笑む、「実現したわね」と。
そして、カーラジオから女性の歌が流れてきた。

♪“37歳になって、彼女は初めて気がついた
まだ花のパリを、見ていない事に・・・At the age thirtyseven”♪


その瞬間、自分も気がついた
パリは愚か、まだロンドンを見ていない事に・・・
もうすぐ3月がやってくる、
私は、37歳になる・・・


1974年、
中学生の私は、とにかく無口で、友達は少なかった。生まれながらの地元でもなく、
封建的な家庭で、いつも姉と二人だけで、家の中や、庭だけで遊んでいた。

二学期に入って、クラス内で席替えがあった。
6人1組の班を創って、女子3人、男子3人で席を並べる。自分の隣りになったのは姉の友達の妹だった。
相変らず愛嬌もなく、ジッと見つめる私に彼女は、「よっ!」と、一声かけて微笑んでくれた。
連られて私も微笑んだ。
おデコが広くて、クリッとした瞳の彼女は、聡明な感じがした。
それから少しずつ仲良くなって、そしていつしか、お互いを「親友」と呼ぶようになっていった。

冬休みに入る少し前になってから、私は、初めて彼女にQueenを紹介した。
当時は、ほとんど無名に近いバンドだったし、レコードもまだ2枚しか出ていなくて、気に入ってくれるかどうか不安だったけど、
とにかく彼女の家にそれを大事に抱えて持って行った。

自分の経験から、彼女もセカンドのジャケットより、ファーストの裏ジャケットの方が気に入ってくれるだろうと思って、
ファーストを上にして渡したのだが、彼女は受取るなり、さっとファーストを裏返してセカンドと並べる様にして見た。
案の定、あまり好印象ではない表情をした。でも、彼女は私の話を聞いて、最初にセカンドから聴くと言ってくれた。
私はその言葉を聞いてから帰宅した。


次の日、親友は自分もセカンドのアルバムを買いたいと言い出した。
彼女は、サイドホワイトがお気に入りになった様子だった。
自分のお気に入りは「サイド・ブラック」だったけど、 親友に、Queenを気に入ってもらえて、とても嬉しかった。

1975年、
今年に入ってから親友と二人で、「Queen日記」と名づけた交換日記を始めた。
1冊目のスタートは、私だった。
まず、大学ノートを買ってきて、表紙のデザインを考えた。
自分も親友もイニシャルが「 K 」だったので、「K」の形を変化させて描いてみた。
ローマ字がカッコいいと思い込んでた頃で、やたらとローマ字を使っていた。
日記の1ページには、その日あった事を書いて、もう1ページは、Queenのイラストを描いてアニメ化した自分達も描いていた。
次の日、学校で親友Kに渡す。
またその次の日、私が書く…。


親友Kは、天性に絵が上手かった。
自分は、マンガタッチなのに対して、親友Kは、しっかりした線で描く。
字も美しく、私は彼女の字をお手本にしていた程で彼女を心から尊敬していた。
すぐに、日記は2冊目に入る。

夢見る年頃でもある二人のKは、Queenに会いにイギリスに行く想像を交換日記の中に張り巡らせる。 イラストにもそれをたくさん描く様になった。
「いつか一緒にイギリスに行こうね」
「イギリスに行くには、100万円貯めないとダメよ」
「ねぇ、今日からがんばって貯金したら、何歳で行けるかな?」
「あのね、英語が喋れないと、行けないよ」
「あっ、明日、英単テストだった」
「あ?、まずそれが先かぁ?」
こんな繰り返しが続いて、高校2年の時、交換日記はすでに20冊を超えていた。

何冊目かの表紙の裏側に、彼女が私も大好きな「Some Day One Day」の訳詞を書いてくれた。


“人生のページは次々とめくられ
僕たちをその中に閉じ込めてしまう
だけど、あの雲の彼方に浮かぶ
城が、君が辿り着くのを
待ち受けている
君はその城の女王なんだ
重苦しい雲が全てを灰色に
塗り替えてしまっているけれど
いつの日か、きっと…”
SOME DAY ONE DAY


サイドホワイトはほとんど聴かなかった私だけど、何故かこの曲の歌詞だけは、妙に気に入ってて、
自分に言い聞かせる様にして、聴くと言うより、歌詞の方をよく読んでいた。
この頃、彼女はブライアンが大好きになっていて、ギターを購入する資金作りの為バイトを始めていた。
それと彼女はよくブライアンがしてた長いマフラーとそっくりなものを首に巻き、
彼のプレイスタイルを真似て借り物ギターをかき鳴らしていた。
彼女のスリムな体型と細長い指、繊細な性格はブライアンによく似てるなと感じていた。

日記を始めた当初は正直言って、そんなに長く続かないだろうと思っていたが、この表紙にはスタート時点から二人とも凝っていて、
クイーンの紋章やイラストを描いたり、彼等のサインを真似して書いたり、
雑誌の切り抜きによるレイアウトありで、いろんなイメージを創って、その交換日記の表紙にしていた。


そしてこれらは、Queenをクラスの皆に知ってもらう、ひとつの手段ともなった。

1978年、
9月に17歳になった親友Kは「セブンティーン」の響きに酔っていた。
同学年でも、3月生れの私はまだ16歳で、1つしか違わないのにとても大きな差を感じていた。
多分、自分も「セブンティーン」の響きに憧れがあったのだと思う。


このとき、17歳のKは、何かに宣誓するようにこう言った。
「これから自分が27歳、37歳、47歳になった時、海外に行く」と。
それは目の前の自分を通り越していた表情だった。

私にはあまりピンとこなかったけど、イギリスに行きたい気持ちは親友と同じだった。
でも、その頃の自分は「夢」として、遥か彼方の想いになっていた。
一言でイギリスへ行くと言っても、1ポンドが約500円の時代である。
しかも日本からしたら、ほとんど裏側。
机の上で、地球儀を回しながらイギリスの国を指でなぞって、夢を見ていた私だった。

1979年、
交換日記は、Queenのイラストページが減っていった。
そのかわり、勉強の事や将来の職業についての話が多くなっていった。
当然、イギリスに行くというセリフは出てこなくなって交換するペースも遅くなり、
何もなければ書かないといった日も少なくなかったが、それでも交換日記は続いていた。

1980年、
3月1日、高校卒業と同時に親友と遠く離れる事になり、交換日記はピリオドを打つ。
ちょうど27冊目が終了した時だった。
親友と別れる前に、その交換日記をどうしようかと、二人でいろいろ考える・・・。
タイムカプセルを作って、それに入れようかとも考えたけど、お互い半分ずつ分ける事にした。

記念すべき1冊目を二人で見る…
とても幼い感じの文章に、二人で笑い出す。
私が「もっと大人になって読み返してみたら、もっと笑えるかな?」と言うと、
親友は首を振ってこう言った。「ううん、きっと大切な宝物だと思うに決ってる」
私はその時初めて、泣きながら笑った。
私はまだ、17歳だった。

歳月は流れる…
その後も、親友とは手紙や電話で連絡をとっていた。


19歳になった私に、突然の不幸が襲った。
その事で私は「19歳」という、大人とも子供とも言えない中途半端な年齢がとても嫌いになった。
当時、いろんな事情もあって、20歳だった姉と二人で母親の担当医に抗議しようとしたら、
世間の「大人」と呼される年齢からは、19.20歳の「人間性」さえも決めつけられてしまう様な 小馬鹿にした応対に、私は強い怒りと不公平さを感じさせられた。
“歳をとっていれば、それだけで、エライのか ?”
“歳をとっていれば、受け応えも違うのか ? ”
“若年であっても、家族を愛している事に、変わりはないじゃないか !”
突飛だけど、早く歳をとりたいと願った。
早く成人して、22歳くらいになれば、きっといい事があるに違いないと思い込んだ。
バカな思い込みかもしれないけれど、そうでもしなければ、未来を見つめる事が出来ない程、 打ちのめされた環境だった。
そして「生きていれば、きっといい事がある」と自分に言い聞かせて、涙を拭っていた。

また歳月は流れる。

1988年、
ある日、親友から絵ハガキが届いた。27歳の彼女は宣誓通り、海外(カナダ)に旅行中だった。
そのハガキには2行くらいしか書いてなかったけど、私には充分わかった。
26歳の自分の方は、平凡だけど幸せな家庭を築いていた。
でも、ふたりの子供の育児に追われていて、 海外旅行なんて、とても行ける状態ではなかった。


1997年、
11月、突然の、姉の訃報。
度重なる身内の不幸に、天国の方が楽しそうだなぁ・・
などと考えたりもした。
「生きていれば、きっといい事がある」の言葉は、
そんな自分には、ほとんど色褪せて感じていた。

生前の姉からの手紙を繰り返し読んでいたら、
クイーンの事がいろいろと書いてあり、
ふっと、親友との『宝物』を思い出した。
何冊目かの表紙を捲った時、
彼女が書いてくれた言葉が目に入った。
ノートの紙は、セピア色をしていたけど、
その「言葉」は、全然色褪せていなかった。


いつの日かきっと・・・
“ Some Day One Day ”






「テルマ&ルイーズ」を見終わった私は、深い溜め息をついた。
あのシーンを思い返すと同時に、あの歌のメロディが頭の中で何度も繰り返し流れていた。
3月がきたら、私は37歳になるんだ。
遠い昔の事、親友Kとの事を想った・・・。

子供達も大きくなって手が離れたし、ちょうど春休みに入るし、貯金もある。今が一番いい時期だ !
行ってみたい ! ロンドンに行きたい !・・そんな言葉が頭の中で、ひとつの「決心」となって、
それまで寝そべってたソファから立ち上がり、海外に居る主人に電話をかけた。
最初、私の突飛な話に驚いてはいたけど、快く許可してくれた。
「やった !!」あまりの嬉しさに、一人で飛び上がって喜ぶ私。でも、なんかこんなにも簡単に決まってしまうなんて、
時は充分過ぎるくらい経ってるけど、ちょっと信じられない様な感じで、宙に浮いた様な気分になった。
ずっと憧れてたロンドンに行ける喜びで一杯の私は涙腺が緩み、涙声で「長年の夢を叶えてくれてありがとう」と主人に告げた。
しかし主人にとっては、私の長年の夢がロンドン行きだという事は初耳だった様で、詳しい話を聞きたがった。

2月に入ってから、パンフレットを取り寄せて、旅行会社にいろんな希望を出す。
出発は、なにがなんでも、3月24日と決めていた。
イギリスから親友に絵ハガキを送ろう・・・、最初にやる事はそれだと思った。
最初のセリフはカナダから貰った彼女のハガキと同じ、初めて彼女と交わした言葉と同じ、「よっ!」で始めるのだ。

いろんなツアーのパンフレットを見ながら、想像に明け暮れていた頃、
タイミングよく、3月から、ロジャーがUKツアーを始めると言う情報が入った。
「運がいいなぁ、天国の姉からのプレゼントなのかなぁ?・・」と、ケンブリッジでのライブチケットがインターネットで取れた時に、そう思った。

当初はイギリスだけだったが航空運賃は変わらないと言う事で、パリにも行く事に決めた。
あのビデオで流れていた歌詞と同じ、“花のパリ”を観てみたいと思い、パリに2泊、ロンドンに3泊の予定を立てた。
しかしパリではフランス語がさっぱりわからないので、ツアーのオプションを使う事にして、
ロンドンでは、個人行動として、念入りにスケジュールを立てた。
でも、初めてのヨーロッパ旅行とあって、何も知らない私は、ネット関係の友達から、いろんな情報を教えてもらい、バックから服装までも、 それらの知識に頼った。

3月10日、
インターネットで、UKラジオ局が「I want to meet Roger」という募集をやってるよと、友達に教えてもらった。
私はすぐに、そのページを見た。すでにチケットは取っていたけど、もしロジャーに会わせてもらえるなら・・・と思い、
早速、英文メールを書く。がしかし、辞書を片手に、たった数行書くのにも長時間かかる。
結局、1日かけて完成させ、疲れながら「はぁ〜、当たるはずないのに、何やってんだろ私」などと思いながら送信ボタンをクリックした。
それからは、宿泊先も決まり、ロンドンの予定もほとんど決りかけていた。

3月19日、
早朝、いつもの様に、メールの受信をすると、差出人の名前が外人のメールが目に入った。
でも海外からのメールは珍しくなく、ほとんど無関係の内容なので、さほど気にしなかった私は、最後にそのメールを開けた。
すると「件名」に「Re: I want to meet Roger」と書いてある。
心臓がドキンと鳴った。

「もしや・・」と言う思いに、急いで中を開けて見る。
最初に目に飛び込んだのは、“ very happy to say”の言葉。
一瞬、身体が固まる。
2行目の“selected you”を読んだところで、心臓の音が一段と激しくなる。
ドキドキは止まらない。
興奮した状態で最後まで読む。また最初から読む。また読む。繰り返し、読む…。
そして私は、なんとか手の震えを押さえながら、一緒にページを創ってるFairyに早朝だと言うのに電話をかけた。
Fairyには、私がそれに応募した事も詳しく言ってなかったので、最初から説明するのが少々歯痒い感じで、興奮を押さえながらの説明は支離滅裂だった(と思う)

受話器を置いてから、少し気を静めようと、窓から見えるいつもの景色を眺めた。
空という巨大なスクリーンに、70年代の自分が浮かんできた・・・
クイーンと出会った頃の私、ロンドンに行ける事が、夢のまた夢だった頃の私、
クイーンのライブを後ろの方の席で飛び上がりながら、必死で観ていた私、
クイーンの音楽で助けられていた頃の私・・・。
そんな私を全部知ってる人に、今のこの気持ちを伝えたくなった。でも、その人は今、いない。
高校の時、自分のドラムセットが欲しくて、駄々をこねてた相手も、今は、いない。
感謝したいのに・・・、この嬉しさを共感したいのに・・・、
伝えたくて仕方ない悔しさに、「いない」寂しさを久しぶりに痛烈に感じた私は、溢れる涙をしばらく止める事ができなかった。
空は、いつもより広く、無情に感じた。

その後もいろんな事を考えていたら、今度は、恐ろしくなってきた。幸せ過ぎると恐くなる・・・。
幸運とも強運ともとれる、今回のタイミングの良すぎる旅行。
しかも、この日、「3月19日」は私がホームページを開設して、ちょうど1年目の日だった。
“何かが、誰かが、私の人生に、ちょっと手を加えて、動かしたのかもしれない”と思った。
“私の人生においての「運」を、ここで一気に使い果たしてしまうのかもしれない”とも思った。

もしかしたら、物事そんなに上手くいくわけがないから、旅先で何か悪い事が起きるのでは ?と、
本当にロジャーに会えるのか信じられない気持ちが半分と、それらの不安が入り交じって、
どうしよう、どうしよう・・・という言葉が、私の中で広がって素直に喜んでいられなくなった。
少しずつ出発の日が近づいてくる。
家族に対して「自分だけがこんなに幸せでいいのだろうか ?」という想いが、私の頭をもたげてくる。
それに、たくさんのクイーン・ファンに対して、私ひとりがロジャーに会えるなんて申し訳ないという気持ちもあって、 それが何故か、一種の罪悪感みたいになっていた。

その事をFairyに相談したら、「そんな事ばっかり考えてないで、旅行を悔いなく思いっきり楽しむべき !」と励まされた。
そして「観たいと思った所は全てチェックしたの?帰国してから後悔しても遅いよ」と言われた。
そうだ、後悔だけは、したくない!この幸運を信じよう!と思い、私はパリのガイドを広げて見た。
思いがけず行く事になったパリ。
「白鳥の散歩路」という名前に、「赤毛のアン」を思い出す。
まるで、アンが名付けた様な素敵な名前だ。一体、どんなとこなんだろう?・・・
パリに想いを馳せる。
アンみたいに楽しい事をいろいろ想像していたら、アンが言った言葉と同じ事を想った。
「楽しんでいる時より、それを待ってる時の方が、一番、楽しくて幸せな時間」なのだと。

出発まで、後3日、
スーツケースの中身を、またひっくり返して、チェックを始めた。





3月24日、
滑走路の奇麗なライトが、機内の小さい窓から、たくさん見える。
そして、24年の、いろんな想いを胸に、夜10時過ぎ、日本を飛び立った。
この日、私は、37歳になった。