1980〜84年
昭和55〜59年当時の日本のヒット曲&出来事
邦楽−寺尾聡「ルビーの指輪」(S56年)
洋楽−ジョン・レノン「スターティング・オーバー」(S55)、 マイケル・ジャクソン「今夜はビート・イット」(S58)、マドンナ「ライク・ア・ヴァージン」(S59)
出来事−S55年、空前の漫才ブーム。 1月、P・マッカートニー、大麻不法所持の為、成田で逮捕。12月、ジョン・レノン射殺される。
S56年、ロジャー初のソロ・アルバム「Fun In Space」を発売。
面白い映画だったわネ、「フラッシュ・ゴードン」の映画を観て、ファンになられた貴重なあなた。 時代はシンセだ!テクノだ!ズンズンチャ♪スンズンチャ♪と、足でリズムとっていたあなた。そんなあなたは、
昭和55年〜59年"静かなる人気下降「貴重型ファン」昭和55年、クイーンは「地獄へ道連れ」で、アメリカを完全制覇する訳ですが、 日本ではこの時期、「郷ひろみ」から「田原俊彦」へと様変わりしていったように、 洋楽も数年後「デュラン・デュラン」「マドンナ」等の出現に、常にミーハーファンは、若い、新しいバンドのもとに生まれ、 初期からのクイーンのミーハーファンはテイーンズを卒業すると同時に熱狂的な勢いは少しずつ下降線をたどっていた様です。
昭和56年の2月、クイーンは4度目の来日(東京5回公演のみ)。 この時「フラッシュ・ゴードン」のプレミア・ショーが開かれました。当時の旬のタレント「薬師丸ひろ子」「太田裕美」←(旬かぁ?)、 それから自称クイーンファンで昔「奥様は18才」に主演してた「岡崎友紀」から花束をもらい、嬉しそうな3人。(フレディは欠席でした) その話題の映画を私も友達を強引に誘って観に行きましたが、感想は・・・友達に悪い事したな、と思いました。 “クイーンが音楽をやってる映画”と、妙な期待感をもち過ぎたのが原因のひとつかも知れませんが、 サウンド・トラックがいくら良くても、映画は映画。もし映画が良かったら、もっと評価されてたのかもしれませんけど。
そしてこの年の11月、国によって曲目が違う「グレイテスト・ヒッツ」が発売されました。 最初、日本盤の裏ジャケで曲目を確かめた後、中袋(パッケージ・デザイン)を見てびっくりしました。 それには「輝ける七つの海」のタイトルがあったからです。でもレコードを聴き直してみても、やっぱり入ってない、 それでその中袋をよ〜く見てみたら、下に小〜さく「違っています・・・ご了承ください」の文字が。(でっかく書け!)昭和57年、原色4色カラーの「ホット・スペース」が発売。それぞれに、面白いと感じたファン、 我慢して聴いていたファン、無視したファン、堪え忍んだファン、いろいろだと思いますが、この年には、ちょうどクイーンが 結成10周年を迎えた事で、いろんな音楽雑誌に「クイーン特集」が掲載され、まだまだ話題にはなっていて、 そして10月には、5回目の来日。私の観た会場(地方だけど)では男性ファンもかなり多く、依然としてクイーン人気は強い(続いている)と 私個人はそう思っていました。
昭和59年には、セピア色の「ザ・ワークス」が発売。このアルバムのタイトルから、解散説が流れていたなど、 当時私は全く知りませんでした。ただメンバーの仲が悪いというのは、雑誌で見かけてはいましたが、 でもあれだけバラバラな4人なんだから、衝突しない方が変だと思っていたし、よく10年以上も、一度もメンバーチェンジなしに続けてきたもんだと 関心していました。しかしそれは、4つの集合体でなければ、成し得る事ができないものを メンバーはそれぞれに充分知っていたからで、だから尚更ジレンマを感じていたのかも知れません。 私としても4人揃って「クイーン」でなければ、何か物足りないし、素晴らしいと感じられない。 彼等はまるで地球における、太陽と水と緑と大地みたいに感じていました。
日本では、この昭和59年、映画「フラッシュ・ダンス」が話題を呼んでましたが、 このサントラ盤をプロデュースしたジョルジオ・モルダーって人は、「メトロポリス」も手がけていて、その中のフレディの「ラブ・キルズ」は、 よく聴いてましたし、テクノっぽいとこが大好きでした。ただ、この映画を見る事が出来たのは翌年になってから(ビデオ・デッキを購入してから)でしたが。