K&K QUEEN FAN CLUB

Queen 日本デビュー40周年


1974年9月
うちの大型ステレオは、左右のスピーカーボックスと共に、お座敷に鎮座していた。
その左手には床の間があり、書院造りのその空間には、場違いこの上なかったが、
中学生の私にはそんな事はどーでもよかった。
滅多に使われないそのお座敷には普段、誰も居ないというのは都合が良く、
レコード・プレーヤーには買ったばかりのレコードをずっとターン・テーブルに乗せたままだったからだ。
アゲハ蝶がゆっくり回転し始めると、慎重にレコード針を落として、私はすぐに定位置にスタンバイ。
冒頭のギター・リフの間は両手をついて前傾姿勢をとる。そしてその後に入るドラムが踊り始める合図だ。
そうやって「炎のロックン・ロール」で汗をかいた後は、縁側に寝そべって「Doing All Right」で息を整える。
私の『戦慄の王女』には、今もその時の情景までハッキリと刻まれている。


あれから40年。
時折、「思えば遠くへ来たもんだ」的な心情になったりしますが、
正直言って、1974年から10年間くらいが、一番熱心にクイーンを追いかけていました。
でもその後は、追いかけなくてもクイーンだけは自分の中にしっかり根付いていた、という感じです。
その証拠に、しばらくぶりにクイーンの曲を聴いたとしても、「ああ〜懐かしい」という感覚にはなりません。
クイーンに対する想い出は数多くあれど、曲を聴くと、「ああ〜久しぶりに燃えてきた !」という感情が湧いてきます。
それが私にとってのクイーンという存在であり、今後もそれはずっと変わらないでしょう。



っと、前置きが最終章みたくなってしまいましたが(^^;、本題はこれからです!
そして特集はもちろん、クイーンのデビューアルバムです。
今回は、ちょっと長いよ〜



デビューアルバムのジャケット
日本でクイーンのデビューアルバムが発売されたのはご存じのように1974年です。
英国での発売とは、厳密に言えば8ヶ月遅れですが、年度表示にすると日本とは1年の差があります。
また、当時は英国はEMIでしたが、日本では(配給元はワーナー・パイオニア)、アメリカのエレクトラ・レコードとの契約の持ち分に含まれていた為、 アメリカから配給を受けて、アメリカ盤に合わせて作成されていました。 なので、アルバムジャケットのデザインは日本盤とアメリカ盤は同じですが、英国盤とは違っていました。

その英国盤が紫色をしている事を私は後になってから知りましたが、 当然ながら日本盤の赤色の方が馴染み深いだけに、英国盤を最初に見た時は違和感がありました。
またその違和感は、カラーの違いだけではありませんでした。

左下の白黒画像は、ジャケットの元写真と同様のステージショットと思われますが、 これを元に、英国盤と日本盤の違いをカメラ撮影で例えると、英国盤は広角レンズで、 日本盤は望遠レンズで撮影したようなデザインになっています。
つまり、広角レンズの特性として、広い範囲を撮ることができる反面、その中のものが小さく写りますから英国盤ではフレディも小さくなっています。
一方、日本盤では背景をボカしやすいという望遠レンズの特性を生かして被写体であるフレディを浮き上がらせています。

とは言え、英国盤のジャケットは表も裏もクイーンのメンバーがデザイン・作成したものなので、英国盤の方が、いわゆるオリジナルです。 それに英国盤の方は、まるで2階席まであるかのような臨場感を感じることができます。
しか〜し!だからと言って、日本盤のデザインが悪いとは思いません。その理由は日本盤特有の邦題にあります。
戦慄の王女』という邦題は当時から強いインパクトがありました。
赤と黒が織りなすグラデーションは「戦慄」というイメージにピッタリだし、何と言っても、両手を天に掲げるその立ち姿は中性的でありながら自信に満ちていて、 誇らしげでもあり、その気高い雰囲気はまさに「王女」そのものです。
もっと言うなら、この立ち姿は、初期フレディを代表する最も印象的なポーズだと思っています。

でも残念ながら、現在では、英国盤ジャケットのデザインに統一されてしまいました。
それによって今後、日本盤のそれは少しずつ忘れられてしまうのかもしれませんが、でもクイーンのデビューアルバムを、 “戦慄の王女”と呼ぶならば、もしくは、“戦慄の王女”と記載するならば、 そこに掲載すべきは、日本盤ジャケットのデザインが最も相応しい!と今でも強く思います。



デビューアルバムのクレジット
アルバムの著作権者や製作者の名前等を表示する「クレジット表記」に関して、
クイーンはその中に、“nobody played synthesizer”とコメントしていたのは有名ですね。
ちなみに、それはデビューアルバムでの記載↑です。
2枚目の『クイーンU』では、“nobody played synthesizer...again.”となっていて、 3枚目の『シアー・ハート・アタック』では、“no synthesizers.”となり、『オペラ座の夜』では、“No Synthesizers!”、そして5枚目の『華麗なるレース』では、“No Synths!”と、略した言葉に変化しています。

さて、デビューアルバムのそのクレジット表記の中には、もう一つ、コメントが記載されています。
それは、英国でリリースされる前に印刷ミスが見つかり、クイーンは正確な文章を記載するように徹底して修正要求を出したそうですが、 その修正には時間が掛かり、リリースが遅れ、フレディはその事に苛立っていたとか。
そのコメントは以下です。
“ Representing at last something of what Queen music has been over the last three years. ”

←左の画像をご覧のように
日本盤デビューアルバムでは、クレジット表記は裏ジャケットの一番下に小さく記載されていますが、 黒枠で囲んでいるように、上記のコメントは、その一番最初に記載されています。
アナログ世代の皆さん、ご存じでしたか?
現在、CDでももちろんクレジット表記の冒頭に記載されていますが、私は長い間ほとんど注目していませんでした。
(ごめんね、フレディ)
ということで、この文を単に翻訳しただけではつまらないので、当時のフレディの苛立ちを鎮めるためにも(今さらかい!)
デビューアルバムがリリースされるまでの活動記録を年表にしてこのコメントの意図を探ってみたいと思います。





デビュー・アルバム『Queen』リリースまでの軌跡
〜 コンサート活動記録 〜
1970


6月27日
コーンウォール州 トゥルーロ / シティ・ホール
*この時、ティム・スタッフェルは脱退してフレディがヴォーカルでしたがライヴ告知には「SMILE」と記載。 ベースはマイク・グロス。

7月18日
ロンドン /インペリアル・カレッジ
*この時のライヴ告知から「QUEEN」と記載される。ベースはマイク・グロス。

7月25日
コーンウォール州 トゥルーロ / ピージェイズクラブ
*ベーシストのマイク・グロスがこのライヴを最後に脱退。

8月23日
ロンドン / インペリアル・カレッジ
*ベーシストにバリー・ミッチェルが加入。

9月4日
ロンドン / スイス・カッテージ・プライベート・スクール

10月16日
ロンドン / ロンドン・カレッジ・オブ・エステーツ・マネージメント・ホール
*ジョン・ディーコンがこの時の「QUEEN」のライヴを初めて観に来ていた。

10月30日
マージーサイド州セント・ヘレンズ / カレッジ・オブ・テクノロジー

10月31日
マージーサイド州リバプール / キャバーン・クラブ

11月14日
ハートフォードシャー州ハートフォード / ボールズ・バーク・カレッジ

12月5日
サリー州 エガム / ショーディッチュ・カレッジ

12月18日
マージーサイド州セント・ヘレンズ / カレッジ・オブ・テクノロジー

12月19日
マージーサイド州セント・ヘレンズ / コングリゲーショナル・チャーチ・ホール

*この頃の正確なセットリストは不明ですが、
知られているのは「Doing All Right」「See What A Fool I've Been」と、ほとんどは以下のカバー曲です。

Jailhouse Rock/ Be Bop A Lula/ Stupid Cupid/ Shake Rattle And Roll/ Bama Lama Bama Loo/ Big Spender
またこの頃からフレディ、ブライアン、ロジャーの3人で、「Keep Yourself Alive」を筆頭にデビューアルバムに収録される曲の大部分を制作しています。

この年、クイーンが行ったライヴは計12回。
その内、ロンドン以外でライヴを行った州は、(左の地図を参照ください)
■=コーンウォール州 トゥルーロ
  ⇒ロンドンからトゥルーロまで、車で約433km
■=マージーサイド州 セント・ヘレンズ , リバプール
  ⇒ロンドンからセント・ヘレンズまで車で約338km。リバプールまでは約349km
■=ハートフォードシャー州 ハートフォード
  ⇒ロンドンからハートフォードまで、車で約54km
■=サリー州 エガム
  ⇒ロンドンからエガムまで、車で約29km
です。
もし、これらの各州にロンドンから車で移動したとしたら、この一年の走行距離のトータルは、単純計算で約3200kmにもなります。
3200kmというと、直線距離にして、東京からフィリピンの首都 マニラまでに匹敵します。

1971


1月8日
ロンドン / マーキー・クラブ

1月9日
サリー州ユーエル / テクニカル・カレッジ
*ベーシストのバリー・ミッチェルがこのライヴを最後に脱退。

2月19日
ロンドン / ホーンジー・タウン・ホール
*ベーシストにダグ・ウッドが加入。

2月20日
ロンドン / キングストン・ポリテクニック
*早くもベーシストのダグ・ウッドがこのライヴを最後に脱退。

7月2日
サリー州 / サリーカレッジ
*このライヴからベーシストはジョン・ディーコン!

7月11日
ロンドン / インペリアル・カレッジ

◇◆◇◆◇◆◇ ここからの2か月間、「コーンウォール・ツアー」を開始 ◇◆◇◆◇◆◇

7月17日
コーンウォール州ペンザンス / ザ・ガーデン

7月19日
コーンウォール州ヘイル / ラグビー・クラブ

7月24日
コーンウォール州ウェイドブリッジ / ヤング・ファーマーズ・クラブ

7月29日
コーンウォール州ペンザンス / ザ・ガーデン

7月31日
コーンウォール州トゥルーロ / シティ・ホール

8月2日
コーンウォール州ヘイル / ラグビー・クラブ

8月9日
コーンウォール州セント・アグネス / ドリフドウッド・スパーズ

8月12日
コーンウォール州トゥルーロ / トレイジ・ホテル

8月14日
コーンウォール州トゥルーロ / RAFカルドローズ・NCOメス

8月17日
コーンウォール州トゥルーロ / シティ・ホール

8月21日
コーンウォール州トゥルーロ / トレイジ・カントリー・クラブ (カーノン・ダウンズ・フェスティバル)

◇◆◇◆◇◆◇ 「コーンウォール・ツアー」終了 ◇◆◇◆◇◆◇

10月6日
ロンドン / インペリアル・カレッジ

12月9日
サリー州エプソム / スウィミング・バス

12月31日
ロンドン、トウィッケナム / ラグビー・クラブ

当時の代表的なセットリストは
Liar/ Son & Daughter / Doing All Right / Hangman / Stone Cold Crazy / Keep Yourself Alive / 他カヴァー曲
サードアルバム収録曲の「Stone Cold Crazy」は、既にこの頃からオープニング曲として演奏されていました。
もちろん、この当時はまだ発展段階でその後、多くの変遷をたどります。

この年、クイーンが行ったライヴは計20回。 その内の半分以上は、コーンウォール州です。(左地図はコーンウォール州を拡大してます。)

71年のこの年、大学の夏休みを利用したのか、2ヶ月間の「コーンウォール・ツアー」を行いましたが、 ロジャーの地元であることから実際はロジャーの人脈によって彼が全て手配しただけに、時折“ロジャー・テイラー&クイーン”と紹介される事があったそうです。
以下、コーンウォール州でのライヴ開催回数。
・トゥルーロ=5回
・ペンザンス=2回 / ・ヘイル=2回
・ウェイトブリッジ=1回 / ・セントアグネス=1回


ちなみに、コーンウォール州の総面積はシリー諸島を含めて、3546km2。日本に例えると「鳥取県」とほぼ同じ面積です。

1972


1月28日
ロンドン / ベドフォード・カレッジ

3月10日
ロンドン / キングス・カレッジ・メディカル・スクール
このライヴのセットリストは以下。
Son & Daughter / Great King Rat / Jesus / The Night Comes Down / Liar / Keep Yourself Alive / See What A Fool I've Been / Stone Cold Crazy / Hangman / Jailhouse Rock / Bama Lama Bama Lou

3月24日
ロンドン / フォレスト・ヒル・ホスピタル

11月1日
トライデントとマネージメント契約。
アルバム「Queen」のレコーディングを開始。(11月末、レコーディング完成)


11月6日
ロンドン / ペサントリー・クラブ

12月20日
ロンドン / マーキー・クラブ

このライヴはEMIとのレコード契約のためにセッティングされたもので、セットリストは以下。
Great King Rat / Son & Daughter / Jesus / Doing All Right / Ogre Battle / Keep Yourself Alive / Liar / Jailhouse Rock / Bama Lama Bama Lou
*デビューアルバムが発売される前に、セカンド収録の「Ogre Battle」が演奏されています。


1973


3月
EMIとレコード契約。

4月9日
ロンドン / マーキー・クラブ
このライヴにアメリカのエレクトラ・レコードのジャック・ホルツマンが招待される。
この時のセットリストは
Father To Son / Son & Daughter / Doing All Right / Hangman / Stone Cold Crazy / Keep Yourself Alive / Liar/ Jailhouse Rock/Be Bop A Lula
*デビューアルバムが発売される前に、セカンド収録の「Father To Son」がオープニング曲として演奏されています。

7月13日
ハンプシャー州ベイジングストーク / クイーン・メアリー・カレッジ

◇◆◇◆◇◆◇ (これ以降のライブ記録は省きます) ◇◆◇◆◇◆◇


デビューアルバム「Queen」発売。(配給元:EMI)

英国におけるデビューアルバムのチャート記録は「24位」と記載されていますが、
これは、後に発売されたシングル「Seven Seas of Rhye」と、 セカンドアルバム「Queen II」(1974年3月発売)が、それぞれ好調な売れ行きでチャートに初登場した後の話しであり、セカンドアルバムがデビューアルバムを引っ張ってくれたと言っても過言ではありません。
なぜなら、セカンドアルバムがチャートに初登場した一週間後の、1974年3月30日になって初めて、デビューアルバムがチャート47位に登場しているからです。それはリリースから、8ヶ月後のことです。
そしてその後、1976年2月7日に記録したのが、この最高位「24位」です。

*ちなみに、英国でデビューアルバムがリリースされた頃、後に日本盤のライナーノーツを書く事になる大貫憲章氏が初渡英して、その時に偶然、ロンドンのレコード店でクイーンのデビュー告知を見つけ、そのレコードを探したそうですが、 見つけられなかったので店員に尋ねたところ、“置いてない!”との返事が返ってきたそうです。



9月4日
米国でデビューアルバム「Queen」発売。(配給元:エレクトラ)

米国におけるデビューアルバムのチャート記録は「83位」ですが、
後に日本盤セカンドアルバムのライナーノーツを書いた、故 福田一郎氏によれば、 リリース当時、アメリカの音楽業界紙では好評なレビューが多く、それがきっかけで米国のロック専門局が放送にのせてデヒューアルバムを紹介したそうで、「デビューアルバムはアメリカで15万枚も売れる、ちょっとしたベストセラーを記録した」と記しています。
ということは、少なくともリリース当時においては、米国でのレコード売上枚数は英国を上回っていたことになりますし、 クイーンの音楽に最初に目を付けたのは、日本ではなく、「アメリカの音楽業界紙だった」ということになります。

*ちなみに、米国では1974年2月に「Liar」もシングルカットしています。しかし収録曲の中でも 6分24秒という最長タイムのこの曲。 ナント、半分以下の、3分にエディットされてしまい、当然ながら結果はチャート圏外でした。 その後も米国のみシングルカットされたエディットパージョン曲がありますが、“目の付け所は良いのに、その乱暴さで台無し!”だったかと。


1974


3月25日
日本でデビューアルバム「戦慄の王女」発売。(配給元:ワーナーパイオニア)

同時発売のシングル「炎のロックン・ロール」は、1974年5月5日に (1週だけ)洋楽チャート40位を記録。そしてデビューアルバム『戦慄の王女』のチャート記録は最高位52位。
なんとも微妙な順位ですが・・・
日本でデビューアルバムがリリースされた頃、英国では既にセカンドアルバムが発売されて、好調な売れ行きだったこと、 さらに、モット・ザ・フープルの前座として初のアメリカン・ツアーが目前だったこと、これらは日本デビューの際の大きな宣伝材料にもなったと思われ、しかも、3か月後には早くもセカンドアルバムが発売された事からも、結果的には、日本でのチャート記録は英国と同じ路線を辿っていたと言えます。

*ちなみに、日本でセカンドアルバムがリリースされた頃、九州の田舎に住むムーディ・ブルースファンの女子中学生が隣町の小さなレコード店でジャケ買いをしていました。その時に偶然、クイーンのセカンドアルバムを見つけ、同時にその帯の裏に書かれてあったデビューアルバムの存在を知って、そのレコードを探したそうですが、結局見つけられず、“多分あのお店には置いてなかったんじゃないかな”と口惜しがってました。

*コンサート活動記録の参照元:queenonline.com


ということで、
英国でデビューアルバムがリリースされるまでの約3年間に行われたコンサート回数はトータルで「39回」でした。
(おっと、こんなところにも「'39」との奇妙な関係が?^^;)

この活動記録をご覧のように、1970年にはデビューアルバム収録曲の大部分が作られており、 当時のセットリストを見ても、少なくとも1971年の終わりには、その収録曲の半分はライヴで演奏されています。 更には、1972年に早くも、セカンドアルバム収録曲からも数曲がライヴで演奏されています。
ちなみに、裏ジャケットの写真を見ると、一番下の左側にはチェスの駒が、右側にはトランプのカードが配置されていますが、 これはブライアン曰く、「チェスの駒は、“白の女王”を、カードは“黒の女王”を示している」との事。

これらの事から、デビューアルバムが英国でリリースされた時点で、クイーンにとっての現在進行形は 次のセカンドアルバムだったと考えられますし、同時に、デビューアルバムは、過去3年間の集大成になっていたと思います。
だからこそクイーンは、クレジット表記にあのコメントを入れたのかもしれません、
だって、想像してみてください・・・コンサートを観に行って、そこで聴いてた曲が、それから数年後に買ったレコードから流れてきたとしたら、どう思うでしょう?

ただ、単にそれが、アルバムがリリースされるまでに、余りにも時間が掛かり過ぎたがゆえに、記載したコメント、だったとしたら、 おそらく、どこか、言い訳じみているようにも受け取られそうですが、私はそれを全く感じません。
逆に、とても堂々とした雰囲気を感じます。その上で、“これが、クイーンだ!”という宣戦布告にも似たメッセージ も込められているように思えて仕方がありません。
多分、人はそれを、“傲慢”と呼ぶかもしれませんが、でもそれが、『戦慄の王女』であり、Freddie Mercury!でしょう。



以上、あくまでも個人的な推察ですので、あしからず!
m(_ _)m


◆あとがき

以前、何かのDVDを見ていたら、インタビューでブライアンがこう答えていました。
“2枚目のシングル(輝ける七つの海)は、1枚目のシングル(炎のロックン・ロール)が売れなかった原因の全てを排除して作ったんだ。 だからこれでダメなら、もうお手上げだと思った。” と。

これを聞いて、ふと、「失敗は成功の元」という諺が頭に浮かびました。
それと同様に、今回の3年間の活動記録を作成していて浮かんだのが、「石の上にも三年」です。
偶然にも・・・
英国でのチャート「24位」という記録は、デビューアルバムがリリースされた3年後(1976年)ですし、
日本でも、初めて『華麗なるレース』でオリコンチャート「1位」を獲得したのは、日本デビューから3年後(1977年)です。

とにかく、今現在となっては、ほとんど話題にもならないとは思いますが、 そろそろ到来する秋の夜長に、クレジット表記のこのコメントにちょっと注目しつつ、『戦慄の王女』のジャケットを鑑賞しながら聴いてみてはいかがでしょうか?
あ、その際は、是非、“日本盤ジャケットのデザイン”でネ。(^^;

さて、次回は「祝!QUEEN 日本デビュー50周年」でお会いしましょう♪