WWRY1000回記念インタビュー ( No.3 ) |
- 日時: 2005/12/25 14:51
- 名前: メイド院
- 参照: http://www.mercuryparadise.com/video/WWRYonthenews.wmv
- 英国のTV番組(London Tonight)のインタビューにロジャーとブライアンが答えています。
ブライアンが舞台上にせり上がって来る様子も少し観ることが出来ます。
LT:(LondonTonight)今日は、ドミニオン劇場が大きく揺れることでしょう。 特別にRock Royalty(ロック界の王家の人々)をお迎えしています。
と、ここで、ブライアンは常識人らしく「Thank you」と答えるのですが、ロジャーはまた照れて(これが、ミミ様、昔少女A様、那由他様ほか女性をノックアウトするんですね。いい男が照れると女はツボにはまります)・・・「それはどうかな〜。僕らはどっちかっていうと、sweaty rock royalty(情けない感じとでもいうのかな)だよ。」とか言ってます。
LT:WWRYが1千回公演ということで、リハーサルを見ましたけど、すごく楽しそうですね?
R:うん。バンド活動はもうずいぶん昔のことになるからちょっと不思議な気持ちだね。僕は初めてだけど ブライアンは前にやってるよね。1000回記念っていうのは特別だし嬉しいね。
LT:ブライアンは前に公演に参加しましたね?ステージに急に登場したときはどんなでしたか?
B:うん。ナイス・サプライズだったよね。毎日の公演だから別に僕がいなくてもいいんだけどね。 ただ、僕らがこの素晴らしい仲間(役者・演奏含めて)たちと一緒にやるっていうのは、ある意味 一体感を持つ経験にもなるしね。誰もがまさか1千回も続くなんて思わなかったからね。
LT:今日の収益金はTSUNAMI基金に寄付されますね。このところ大きなイベントでは みんなそのようにして巨額の寄付を集めていますけど、お二人にとってもそれは大事なことですか?
R:そうだね。どんな形であっても自分たちの仕事が、実際の援助に関われたらいいと思う。
B:すごく募金が集まっているし、今夜の収益金はすべて寄付されるよ。
LT:最初の頃、評論家の批評は酷いものでしたから、まさか1千回も公演を重ねられるとは思って いなかったのでは?でもファンの支持を得ましたよね。
B:そうだね。でもファンだけじゃなく、一般の人たちの口コミで広まったんだよ。僕らをたたきつぶそうと されたり、最初はすごく大変だった。でも、このショウはrockin, happening, genuineだからね。 みんなに楽しんでもらる為のショウだからクイーンファンである必要はないんだよ。
R:評論家より観客のほうがよくわかってるからね。
LT:さて、2005年にクイーンはツアーを開始しますが、ファンにとってはすごいニュースですよね。
R:うん。あまりの反響のすごさにビックリしているし、すごくエキサイトしてる。フレディもそうだったけど、 僕らが大好きな素晴らしいsingerと一緒にやれるわけだからね。プロパーでは18年ぶりのツアーになるね。
B:ヨーロッパをツアーして1ヶ月半後にUKに戻ってくるよ。実は僕自身がこういうことになるとは 思っていなかった一人だよ。それがポールロジャースという信じられないような歌声で魂の真髄を 歌えるsingerに会ったことで変わった。
LT:ロビーウィリアムスはすごく残念がってるそうですね。
R:(笑)
B:そりゃでっちあげだね。ロビーはいい友達だよ。
R+B:でもいつでも、今夜だって歓迎するよ(笑)
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1979年ブリュッセルでのインタビュー(4人) ( No.4 ) |
- 日時: 2005/12/25 15:06
- 名前: M.Kassy
- 参照: http://www.mercuryparadise.com/video/QueenBrussels79.wmv
- メイド院様ご紹介の映像を我が家のホームビデオテープと見比べてみました。(この番組は昨年5月放映の後2回ぐらい再放送されたかと思います)
すると、ビデオ録画では、リンクした映像の4分20秒から5分17秒まで約1分間、カットしてあることがわかりました。 ここのところ、フレディがたくさん話してるところです。是非どなたか訳して教えてくださいませ。 では、(NHKの録画をご覧になってない方)何の芸もない邦訳ほぼ全文丸写しです、どうぞ。
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Brian :ライブはいろいろな意味でぼくたちの活動の生命線なんだ。レコーディングとツアーの両方に時間をかけるグループは少ないけど、ぼくらは両方に力を入れている。アルバム1枚を3ヶ月かけて作って、次にそれをステージで歌う。そこで初めて聴衆の反応がわかるんだ。アルバムを作り終えてツアーに出るときはいつもわくわくするよ。新しい歌を皆がどう思うかがわかるからね。幸いに僕たちの場合、聴衆に合わせる必要がない。ミュージシャンとしての僕たちを皆理解していてくれるからね。
質問:「オペラ座の夜」以降、どのアルバムも、同じ感じだけど?
Freddie:どういうこと?(苦笑)
Brian(たぶん):そうかなー。
Roger:「華麗なるレース」はそうだけど、最新の「世界に捧ぐ」は全く違うよ。(メンバーの方を見て)どう思う?
B:「世界に捧ぐ」は正反対だよ。「オペラ座の夜」と「華麗なるレース」は、複雑さを極めた双子みたいなアルバムで、そこからシンプルな原点に戻ったのが「世界に捧ぐ」なんだ。ストレートなロックのアルバムで、過剰なオーバーダビングもない。新たな方向転換だったから似てるとは思わない。
F:意識して似せてはいないよ。 B:これはチューニングマシンで、メモリのはいった円盤が光るんだ。音が合うと光の動きがピタッと止まって見える。 少しフラットだな、こっちへ動いてるからね。こんどはシャープ、音が合うとこうなるんだ。うるさいところでも使えるから便利だよ。
B:暑くて汗だくになると、ギターにも人間にもよくない。ステージの後、体が冷えて風邪を引いたりするんだ。毎晩ステージをやるにはすごく健康じゃないとダメだね。体調が悪いままツアーに出たりしたら最悪だよ。運動選手と同じで体が第一なのさ。 質:最近の新しいグループの歌は聞いてる?
B:できる限り聞くけどほとんどイギリスにいないからね。ツアーも、レコーディングも最近は外国でやることが多いんだ。離れてても聞くようにはしてるけど。
質:好きなグループは?
F:さあね?
R:名前をあげてよ。
質:例えば、ディーヴォ、トーキングへッズは?
R:ああ、そのふたつはいいね。
質:クラフトワークは?
R:ぼくはあんまり・・・。
質:パブリックイメージは?
R:ニューアルバムは最悪。がっかりしたよ。
(ここで58秒間 要超訳 )
質:パンクミュージシャンは、とかくあなた方のようなスターに手厳しいけれど?
R:それは彼らが未熟だからさ。ステージの数が違うよ。
F:嫉妬だね。誰でも通る道さ。ぼくたちも、レッドツェッペリンに嫉妬したよ。
R:ほんと?
F:あんなふうになりたくて・・・。目標だったね。健全なことさ。
B:流行で言ってるだけさ。 騒ぎ立てるのがカッコイイと思ってるのさ。ただなんでも反対すればいいんだから。パンクで起きていることのほとんどは、僕たちから見れば昔への逆行だよ。音楽の発展というよりただの流行だね。
質:マスコミにたたかれることもあるけど。
F:ひどくね。
R:虐待だよ(笑)
F:お互いに嫌いなのさ。
R:マスコミ相手に時間を費やしてろくに仕事もしない連中がいるね。インタビューに答えてばかりでレコーディングもしない。僕たちの基本はツアーとレコーディング、まじめにやっているよ。(笑)
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1979年ブリュッセルでのインタビュー(4人) ( No.5 ) |
- 日時: 2005/12/25 15:07
- 名前: メイド院
- 参照: http://www.mercuryparadise.com/video/QueenBrussels79.wmv
- M.Kassy様が見つけてくださったNHKの番組ではカットされていた1分間の字幕スーパーなしの部分に
訳をつけさせていただきました。
質問: では、パンクについて。2年前、ニューウェーブがブームになりましたが、 現時点で、脅かされるような気持ちにはなっていませんか?
R: ん〜、難しい質問だね
F: うまく言えないけど、認識してるよ。 この業界で何が起こっているかはよく知ってる。 僕らが脅かされてるとか、恐れてるというのは、表現が違うよ。 僕らは、(パンクムーブメントについて)よく分かってるよ。
R: (パンクは)商業的には、決して成功してないんだよ。売れなかった。 最初にいくつか出てきた中から、今じゃ2、3のグループで、比較的良いものが続いているってところでしょう。
F: 僕らも「Bad Guy」に仕立てられたんだよ。ある意味、それが功を奏して僕らは注目を浴びた。 僕らは、精神的に悪影響になるってことでしょ。それがニューウェーブの彼らに対しても同じことが 起きたんじゃないかな。僕らは異質だった。エクストラバガンザだよ。
R: もう、随分消えちゃったみたいだよね、ほんの少しのバンドだけさ。
F: 結局、最後は才能あるものが残るんだよ。
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1986年オランダTV番組:ジョン・ディーコン ( No.6 ) |
- 日時: 2005/12/25 15:09
- 名前: メイド院
- 参照: http://www.mercuryparadise.com/video/JohnDeacon1986.wmv
- 司会:ジョン、「COUNTDOWN(番組名)」へようこそ。
今回はクイーンの新曲、A Kind of Magicプロモーションで来てるわけだけど ほかのメンバーはどこ?別の国でプロモ中?
J: ロンドンに戻って休暇中だよ。ニューアルバムを録音し終わったばかりだからね。
司会:いまの答えで次の質問にも答えてくれたようなものだけど、 この曲は映画「ハイランダー」からの曲ですよね。
J: 映画の最後にタイトルバックと一緒に流れる曲なんだよ。 そっちはシングルバージョンとはずいぶん違うよ。 全く違うベースラインで録音したし。でも映画からの曲です。
司会:「ハイランダー」には6曲提供してるんですよね。
J: アルバムの6曲は映画からで、3曲は新しい曲だよ。 だいたい5月の終わりくらいに出るよ。
司会:どうして最近の映画は有名なバンドやアーティストが サウンドトラックをやるんでしょう。 自分らにやらせてくれとプロデューサーに頼んでるのかな。
J: それはあるだろうね。 アメリカの映画会社とかは音楽がどんなに大事なものか気づいたんだよ。 たとえば「ビバリーヒルズ・コップ」とかそのいい例だよ。 映画と音楽は切り離せないものになってるね。
司会:バンド活動してると解散の噂はつきものですよね。 僕はクイーンはそんなことないと思うけど、どうなんでしょう。
J: みんな自由にやってきてるからね、いまだにものすごく議論しあうよ、 いやほんとにすごいんだ(笑)。 も僕らは一緒に活動することを楽しんでるし、この夏にはヨーロッパで 大々的なツアーに出るよ。
司会:この質問は長年音楽業界にいるあなたにこそ聞きたいんだけど この10年くらいでポップミュージックは凄く変わったんですが もっとも大きな変化はなんでしょう。
J: この5、6年でさえ凄く変わったよね。 僕らが始めたことは、ドラムマシーンとかなかったし、 シークエンスとかそういうものもね。 音楽をつくるのがある意味で容易になったともいえるね。 アイデアを曲にするのが簡単になったというか。 ビデオ制作の面でもすごく変わったね。 僕らが初期にボヘミアン・ラプソディを撮ったとき、 1975年頃は、まだビデオクリップは少なかったよ。 あのビデオを覚えている人は多いだろうね。
司会:A Kind of Magicの撮影はどうでしたか?
J: まあまあだったよ。一日で撮影した。 ビデオはある意味、バンド活動とは違ったものだから 多くのバンドはあまり制作するのは好きじゃないみたいだけど 僕らは楽しかったよ。
司会:フィルムの中であなたは随分、違って見えますね。 あれはどういうことなんですか?
J: 浮浪者の格好で無茶苦茶やってるでしょ。(笑) ビデオを作るときに毎回新しいアイデアを出すのは難しいね。 このところビデオクリップはたくさんあるからね。 違いを出すのは難しいよ。
司会:どうもありがとうございました。 では、クイーンのA Kind of Magicです。
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エルトンジョンの特番で質問するロジャー ( No.7 ) |
- 日時: 2005/12/25 15:11
- 名前: メイド院
- 参照: http://www.roger-taylor.net/downloads/rien_AudienceWithElton.wmv
- 何年か前にElton Johnの特番があって、そこの中でロジャーが質問している場面です。
(ロジャーのお隣はBreakthruのPVで黒メイクしているデビーさんですね。)
エルトンが「Hello, Darling」、ロジャーが「Hi, Elton」ってかわいく(!)挨拶かわして質問してるのは、 「どうやってジョン・レノンにもう一度ステージで歌うことを説得したのかっていうことと、 そしてそれはジョンがヨーコともう一度一緒になった直接のきっかけだったのかな。」と質問しています。 エルトンは、「ジョンがアルバム♪心の壁、愛の橋♪をレコーディングしてるときに、 2、3曲一緒に演奏してと頼んできて、そのうちの1曲が 「真夜中を突っ走れ」だったんだ。 で、僕らはある取り決めをしたんだよ。もしシングルが1位になったらジョンは 必ずどこかのステージでライブ演奏することってね。で、シングルは正に1位になったから必然的にそうなった。 場所はマジソンスクウェアガーデン、ジョンの故郷みたいなとこで。それはもう本当に忘れられない、 記念すべき夜だった。ジョンがステージにたったのは本当に久しぶりだったから、彼が登場したときには、 15分ものスタンディングオベーションが続いたんだ。 ジョンはステージに上がる前はすごく体調が悪かったんだけど、バックステージにはヨーコが来ていた。 そう、その日がまさに、彼等がreunionした日だったんだ。それで僕はショーンのGod Fatherになったんだよ」 とエルトンが答えてます。(かなり意訳ですけど〜雰囲気で・・・)すいません。
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Q+Pハイドパークコンサート直前インタビュー ( No.8 ) |
- 日時: 2005/12/25 15:13
- 名前: メイド院
- 参照: http://www.mercuryparadise.com/video/Roger_050705.wmv
- 2005年7月5日、英国のテレビ番組「Richard & Judy」にロジャーが出演しました。
ロンドンの地下鉄テロ事件が発生する前です。 だいたいの内容をお伝えするということでご容赦くださいませ。
リチャードとジュディさんが司会。 ロジャーが、ブライアンも出演する予定だったけど、食あたりで来れなくなったってことと、ドイツ公演が あるから明日までには良くなってると思うと話してます。
では、続きを・・・
リスボンにいたってことは、ライブ8は昼間は観れたんですね?夜の部の、The Who, Pink Floyd, Stingは 録画で観たと思いますが、自分たちも、そして若い世代もピートタウンゼントには圧倒されましたよ。 クイーンはフレディ亡き今も今が、フー、アメリカのディープパープルとか、ロックドライブはハード そのものだし、いいロックンロールバンドは年齢を重ねるとともに更に良くなってるのは何故だと思います?
ロジャー:ピートタウンゼントは内なる炎を持ってる人で、そもそも素晴らしいプレイヤーだからね。 それに僕らはサバイバーで、生き残ってるわけだから(笑)、僕らの世代の特質かもしれないね。
私達にとってはまさか、あのフリーとクイーンが一緒になってうまくいくとは到底考えられなかったけど、 素晴らしい組み合わせになりましたね。
ロジャー:すごくうまくいってるよ。よりブルース色が強くなって、エッジがきいてる。別に僕らはポールに きてもらいたいと思ってたわけじゃなくて、たまたまギター関係のチャリティーギグでブライアンと ポールが一緒にやったのがきっかけで、これはうまくいくかもって思ったんだよ。僕らはみんなフリーが すきだったし、フレディと得にポールロジャースが大好きだった。ポールはブルースエッジのある最高の 声の持ち主だよ。
ハイドパークのコンサートチケットは売れてますか?
ロジャー:最近は競争も激しいけど、良く売れてるよ。 (このあとゲストがだれそれで・・・という話)
フレディの時代の話になって。。。。 Bicycle Raceという曲はすっごく変わってますよね。
ロジャー:スイスのホテルに滞在してるとき、その前をツール・ド・フランスが通ってね。フレディは すっごい感動しちゃって、「う〜ん、すごいアイデアが浮かんじゃった、dear」って、そうフレディの アイデアだったよ。
フレディのお母さんは、お二人がポールロジャースと再びツアーに出ることを喜んでいらっしゃるとか?
ロジャー:そうだね。フレディのお母さんは、いつでも協力的で応援してくれる人で。フレディがお母さんを あんまり愛しているから、僕なんかちょっとビビッてたくらいなんだけどね。
そういう(仲の良い)親子関係だったのね。 すっごいストレートなこと聞くけど、ボヘラのハーモニーのなかでfor me〜〜〜♪のあの高いのは あなたが歌っているの?
ロジャー:そうだよ。今はもう出ないよ。僕のノーマルな声は高くなったし、より豊かにはなったけど、 ファルセットはもう無理だね。あの高音はFだったかな。(Richard & Judyからは感嘆のため息)
そしてクイーンがいかにすぐれたライブバンドだったかって話しになって、お決まりのロビーウィリアムスが ライブ8でもオーディエンスをひっぱったっていうネタが振られましたけど、ロジャーはふふんって感じで。 ブライアンはまだパパと暖炉から作ったギターをまだ使っているんですかと聞かれて
ロジャー:いくつかコピーはあるけど、まだ同じギターだよ。
コンサートを楽しみにしてますよ〜。またツアーやってくれて嬉しいですよ〜って感じで終わりました。
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ぶーさんの本田美奈子さんの思い出 ( No.9 ) |
- 日時: 2005/12/25 15:15
- 名前: 在英くぃーにー
- 「彼女は19歳と若かったのにスタジオでは飲み込みが早く日本語の歌詞のレコーディングはすんなり行ったのに、英語の発音にてこずって僕はちょっとプッシュし過ぎて彼女はスタジオのすみで泣いてた。このことは後悔してる。アニータ(現ぶーさん夫人)と出会った頃で色々あったけど、プロデュースの仕事があったから乗り切れたんだ。その中でもGolden Daysは彼女の笑顔の下のはかなげな面とマッチしてた。当時はアイドル歌手扱いだったけど後年ミュージカル俳優としてプロとして深みをきわめて来てたのに、何てことだ。
My dear friend Minakoが療養中と聞いてたので日本についてすぐ彼女のマネージメント会社に連絡を入れたんだけど会えないまま帰英すると彼女の訃報。Golden Daysはしばらく聴けそうにない。彼女とのレコーディングのことは良く覚えてるのにもうずいぶん昔になるんだ。天使のようなMinako。ご遺族はきっともっと悲しんでおられるね。ご冥福をお祈りします。」
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10/12の夜、米国でオンエアされたラジオ番組(1) ( No.10 ) |
- 日時: 2005/12/25 15:17
- 名前: メイド院
- ブライアンサイトのWhat’s Newの10月13日のセクションでアップされている
10/12の夜、米国でオンエアされたラジオ番組です。
司会者がいて、リスナーからの電話による質問に3人で答えています。 ROTCを中心にクイーンの曲も間にはさみながら進行しています。 随時、計5人が一つの質問に対して参加しており、声が重なりあったりしていますので、全部は 書き取っていません。(司会者の発言は割愛しております;)字幕程度か意訳に近いものだということをご了承下さい。 また、最初の15分間の録音が欠けているそうですので、以下は途中からの音源によるものです。
みんな楽しそうに話していますよ〜。私が特に面白いなと思ったのは、ロジャーとブライアンのやりとりです。 インタビューと違って、互いに声をかけたりする部分があり、二人の長い付き合いが感じとれる気がしました。 そして、ポールへのさりげない配慮がとても素敵でした。(うまく伝わるかしら・・) ********************************* P:クイーンの曲はフレディの歌として存在している。だからこそ僕は、自分のブルースルーツに 対して誠実でありたいし、大事にしようと思っているんだ。フレディに限らず、誰かをコピーしようと するのは愚かなことだよ。僕はブルースのソウルを自分の歌に取り込もうと思っている。 例えば、Show Must Go Onをライブで演奏することは、クイーンにとっては初めての範疇にあるものなんだ。
B:そうだね。あの曲は、フレディとはライブでは演奏できなかった。
R:ポールは自分自身のものにして歌っているから、常に新しいテイクになるんだよ。それに僕らには もともとブルースが音楽のルーツにあるんだ。
P:多くのバンドが音楽的ルーツにブルースを持っているよね。フリー然り、レッド・ツェッペリン、 ジミ・ヘンドリックス、みんなそうだよ。
R:ポールは、もっとブルージーで、ブルース・エッジを持ってる。
B:僕らは、フレディに似せようとする人とは組むのは最悪な事だと思ってたし、避けてきたよ。 今は、ポールとは新しいことが出来るのがすごく嬉しいよ。
P:僕はね、彼らのような素晴らしいミュージシャン達と、この素晴らしい曲を歌いたいか?って考えたときに、 答えがイエスだったということだよ。
女性: Greatest HitsのDVDを出しますか?それから、I Want to Break Freeロジャーのアイデアですよね?
R:Break Freeは興味深いものだと思うよ。男がドレスアップするのはヨーロッパ的なものだったから (全員:えーっ、ほんとかよ〜!?笑)米国では面白がってもらえなかったけど。僕らのビデオの 中では一番、面白いと思うよ。あの曲、この国で有名なの?
女性:私は28歳だけど、よく知ってます。クイーンの音楽で育ったんです! (緊張のあまり、上手に答えられてません;)
司会者:あなた(女性)は当然知ってるでしょうけど、確かCMに使われていたと思いますよ。(と、フォロー)
B:DVDに関しては、欧州で数本くらい出てるけど、米国じゃ出てないかもね。僕は珍しくBreak Freeを 米国でプロモートしたんだけど、あの時、ビデオを観せた人たちには、全く受けなかったよ。でも、 今じゃFoo Fightersが似たことやっても、僕らほど嫌がられるってことはないみたいだね。
R:うん。彼らの方が、僕らよりずっとキレイな女性になりきってるもんね。(爆笑)
男性:ポールに質問です。ギタリストの中のギタリスト、ブライアン・メイやドラマーの中のドラマー、 ロジャー・テイラーとステージで一緒に演奏するのはどんな感じですか?
P:どんな感じかって?そりゃ、最高(Brilliant)だよ。WWRYやラジオ・ガ・ガを演奏してるときなんか、 あの拍手♪、観客と一体になって、クイーン・モーメントというのか、マジック・モーメントを 体験するんだ。素晴らしいよ。
B&R:なんだ、僕らも同じだよ。(笑)
(2)へつづく
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0/12の夜、米国でオンエアされたラジオ番組(2) ( No.11 ) |
- 日時: 2005/12/25 15:20
- 名前: メイド院
- 男性:ポールに質問です。ギタリストの中のギタリスト、ブライアン・メイやドラマーの中のドラマー、
ロジャー・テイラーとステージで一緒に演奏するのはどんな感じですか?
P:どんな感じかって?そりゃ、最高(Brilliant)だよ。WWRYやラジオ・ガ・ガを演奏してるときなんか、 あの拍手♪、観客と一体になって、クイーン・モーメントというのか、マジック・モーメントを 体験するんだ。素晴らしいよ。
B&R:なんだ、僕らも同じだよ。(笑)
男性:僕は24歳です。お話ができて光栄です。セットリストでは、ブライアンとロジャーの 曲を意識的に選んでいますか?例えば、Long AwayとかFight From the Insideのような曲。 それから、Innuendoはポールが歌ったら素晴らしいと思うんですけど。
R:選曲については、そんなことはないよ。みんなが聴きたい曲をやろうと思ってる。
B:Innuendo に関しては、最初の頃、ポールと話し合ったよね。
P:うん。いつか実現するかもね。
R:そういう(LongAway, Fight From the Inside)曲よりも知られている曲がたくさんあるからね。 Long Awayは、もうブライアンが一度歌ったね。(B:うん、イタリアでね)
B:実験的に演奏するとうよりは、みんなが期待する曲がいいと思ってる。大多数の人たちは クイーンのヒット曲、それにポールのヒット曲を聴きたいだろうからね。
R:あまりコンサートが長くなりすぎないようにしないとね。(笑)
男性:日曜にコンサートに行きます!(全員:All right!)質問は、セカンドアルバムにはBlack Side と White Sideがありますが、意味はありますか?
B:あれは、偶然っていうのかな。くっつけたというか。
R:(くすっ)ノンコンセプト・アルバムだよ。
B:流れは考えてたね。今は、CDを聴くのは、もっとぶつ切りな感じだけど、あの頃は、ゆっくり 座って聴く時代でもあったからね。ある程度のグループ分けはあったけど。僕はWhite Queenと いう曲を書き、フレディがBlack Queenを書いて来たから。つまり・・・意味は全くないね。(爆笑)
男性:ライブ8でグリーンデイがWe Are The Championsを演奏して、すごく良かったことについては どう思いますか?
B:最高だったよ。ありがとう、グリーンデイ!アメリカで最も成功しているバンドの一つだよね。
R:へぇ、そうなんだ。ライブ8については、僕は聴いてないから何とも言えないな。 若いバンドが、うまく演奏してくれるのは嬉しいよね。
女性:クイーンの曲をカバーされるのはどんな気持ちですか?
B:うぅ〜ん。まあ、嬉しいけどね。普通は、レコードカンパニーとか出版社が対応していることでね。 オリジナル曲に敬意が払われていればいいと思う。
R:技術的なことが関係しているし、全部に目を配ることは出来ないね。
B:レコード会社がコンタクトをとってるんだよ。ジム・ビーチには感謝してます。女性に失礼だったり、 人種的偏見がなければ、いいと思うけど、そういうケースはまずないからね。
男性:ポール、そして二人に、クイーンとしてまた活動を始めてくれてありがとう!と言いたい。 そしてロビーウィリアムスを選ばなくて良かったことに感謝してます。
全員(爆笑):フェアじゃないよね(笑)なんて、失礼な!僕らはロビーを愛してるよ。
(3)へつづく
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10/12の夜、米国でオンエアされたラジオ番組(3) ( No.12 ) |
- 日時: 2005/12/25 15:23
- 名前: メイド院
- 続き:いくらかテープも残っているそうですが、ボックス・セットをリリースしますか?
B:端的に言って、無いよ。ポールと一緒にやっていることに最大のエネルギーを注いでいるよ。 将来的にはそういうこともあるかもしれないけど、僕たちは今に全力を尽くしたいと思ってる。
R:君は、日曜のコンサート行くの?楽しんできてね。それが今の僕らだよ。
男性:Made In Heavenに入っている曲は、Innuendoからの残りから作ったのですか?
B:ミクスチャーだね。フレディは亡くなる前に、「何でもいいから詩を書いてくれよ。自分が いなくなったら君らで完成させてくれ。」って言ってたんだ。この国ではあまり知られていないけど、 フレディのソロアルバムからの彼のボーカルも使っている。
R:タイトルトラックもだよね。
B:そうMade In Heaven! すごい曲だよ。僕らの愛の結晶だよ。
R:不思議なもので、だんだんと彼がいるみたいな気がしたね。
女性:ポール、歌うのをやめた曲はありますか?
P:う〜ん、そうだなぁ。みんなで選曲してるよ。僕としては、「狂気への序曲」が大好きなんだけど。 でも、僕は出来ないんじゃないかな。遠慮してる曲はあるよ。
R:あの曲には、ちょっとコメディの要素があるよね。
P:傑作だよ!
司会:ポールの曲はどうやって決めたのですか?
B:あ〜、それはすっごく簡単だったよ。僕もロジャーもポールの大ファンで、あ、ポールはまだ気が 付いてないかもしれないけど(笑)、(R:フレディもだよ!フレディはポールの大ファンだった!)。 一緒にポールの曲が出来るのは本当に嬉しいんだよ。ポールは僕らよりずっと前にスターだったからね。 All Right Nowのギターソロとか骨に沁みるよ。(P:二人とも凄いよ)あれはギター小僧はみんな弾きたがるよ。
男性:ANATOは制作にいくらまた、どのくらいの期間かかりましたか?
B:面白いこと聞くね〜。
P:まだ請求書が来てるよ。
R:すごいかかったよ。・・・たぶん40ドルくらいかな(笑)ビートルズは6ヶ月。 僕らは5ヶ月を費やして制作したね。
B:テープが消耗しちゃってねぇ。ANATO(ほんとにアナトと発音してる)は・・あれ、50周年だっけ?(笑)
R:30周年だよ。5.1スピーカーシステムはすごいよね。(B:うん!あれは最高だよ!)
B:DVDも出るよ。ボヘミアンラプソディに、Best Friend・・・。
男性:Fat Bottomed Girlsはどうして出来たのですか?ポールの次に選ぶとしたら誰ですか?
B:誰もいない!絶対!ポールの二番手なんていないよ!Fat Bottomed Girlsね。長い話になっちゃう。 あぁっ、曲の解説するの嫌いなんだっ(笑)。色んな意味があるよ。
男性:ツアー後にソロ・アルバムを作る予定ありますか?あと、レイチャールズみたいな自伝映画を ハリウッドで作るとかはありませんか?
R:(即答)No more solo album. すっごく大変なんだよ。僕の答えは、Not for me.
P:僕は、最近じゃFour Topsと共演したり、いろんなアーティストと共演するのは楽しい。 あとは近い将来、僕自身が特別番組を作る話もあるからね。そのときは、二人とも歓迎するよ。 (B&R:ありがとう) (4)へつづく
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10/12の夜、米国でオンエアされたラジオ番組(4) ( No.13 ) |
- 日時: 2005/12/25 15:25
- 名前: メイド院
- R:で、ブライアン、次のソロ・アルバムの計画について教えて下さい?(ちょっと楽しそう;)
B:(笑)今のところはありません。今やっていることが凄く楽しいし、3人でステージでやってきたことが 自信になってるから、スタジオに入ることもあるんじゃないかな。そっちに興味があるよ。(へぇ〜と誰かの声)
女性:ロジャー、Say It’s Not Trueを歌うあなたの声がとっても素敵で、感動的で素晴らしい曲ですよね。 あの曲についてコメントを下さい。私は、シンリジィがサポートした77年の全米ツアーで、ナッソーコロシアムに 行きました。あのとき演奏したLiarのジャム(セッション)は素晴らしかったです。(全員:わ〜ぉ) 今度のショーでも演奏しますか?
B:Rog、君だよ。
R:えっと、Liarはやらないね。あの時、どんなふうに演奏されたのか思い出せないけど。(B:くすっ) でも今度の公演も満足してもらえると思うよ。あれは悲しい曲なんだけど、ネルソン・マンデラの為に 書いたんだ。世界中で、特にアフリカで広がるHIV感染症・エイズについてなんだ。自分がポジティブだ という知らせを受けて、どう対処して行くかっていう、ある意味で、警鐘を鳴らしてるんだ。
女性:ロジャーに質問なんですが、セットリストにSay It’s Not True、Let There Be Drumはアメリカでの セットリストにも含まれますか?あと、ジーンっていうのは誰のことですか?
R:ジーンはジーン・クルーパーのことだよ。Say It’s Not Trueは、含まれるよ。(ちょっと声をひそめて) なんでかっていうとね、ブライアンが着替える場面が必要だからさ(笑)。 カクテルドレスに着替えるんだ。(笑)
女性:私は英国出身で、ハイドパークのコンサートに行きました。素晴らしかったです! (B&R:わ〜、それは有り難う)ツアーで演奏する好きな曲は?みんなボヘミアンラプソディが 好きですけど。(口々に難しいなあ)
B:All Right Now。
P:Show Must Go On(B:ポールは素晴らしいよ)
司会者:ロジャーは?(B:Say It’s Not Trueかい?)
R:Feel Like Making Love
司会者:今日は、3人そろっての出演、どうもありがとうございました。
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Re: 10/12の夜、米国でオンエアされたラジオ番組 ( No.14 ) |
- 日時: 2005/12/25 15:27
- 名前: メイド院
- 新しいアルバムのことですが、私はロジャーのファンサイトで、彼がインタビューに答えている
一部抜粋を読みましたが、ほかにもどっかでニュースリリースがあったのでしょうか。 私が読んだものは、全文が探せないので、この前後の言葉を知る由もないのですが、 察するに、すぐに新譜を出すという内容ではないと思いましたがどうでしょう。 この種の発言に対しては、すごく慎重なブライアンが、ツアーをやる前かな、ポールとは、 これから色んな可能性があると思う、という多分に含みのあることを別のインタビューで確かに言っていましたよね。 で、さきほどのロジャーの発言を要約してみました( )内はメイド院のツッコミ。 ・・・そのこと(何のこと?)については、もう決めてかなきゃいけないと思っているんだ。 僕とブライアンがまた曲を作り始めるのは、すごくいいことだと思う。 成功してもしなくても、また誰が作るにかかわらず、レコードを作り続けてくことは大事だと思わないかい? (いまだにrecordっていう単語は使用可能なんですか?ロジャーはミュージシャンにとって 創作活動を形にするのが仕事であり、意味があるんだよって言いたいのかな。) 僕らがやるとしたら、ほんとに滅茶苦茶すごい曲を書かないとね。で、そういうどかーん♪としたヒラメキ (こんな擬音は言ってませんが気持ちで;)みたいなものが来たら、そりゃあアルバムを一枚 作り上げる勢いが出るだろうね。そういうのができたら最高だろうね。 ・・・・・・・
・・・・・・・ これを読んで、創作意欲を感じます。だから、新譜が世に出る可能性はあると思いました。 つい最近、ブライアンも自分には引退なんてないよ。だって、音楽をやめるなんてとても 考えられないと言ってますね。Foo Fightersっていうのかな?の人たちもブライアンは、本当に 演奏することを愛している人で、彼は一緒にやりたいと思ったら、すぐに行動に移すギタリストだよ。 ただ、いまだにとても多忙なんだよねぇ、と憧れのブライアンについて語ってます。 ブライアン、生涯現役宣言してる訳だから。いづれにせよ新譜は出てくるでしょうね。 あとは、スタジオ入りしたりする、彼らの時間的な問題だけでしょうか。 ツアーの興奮さめやらぬ時期をあまりはずしたくはないでしょうし。かと言って、ライブが出たばかりだし。 でもそお遠くない将来、新譜は出るのでしょうね。
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フレディのママのインタビュー記事翻訳(No.1) ( No.15 ) |
- 日時: 2006/11/27 09:01
- 名前: メイド院
- 2006年9月2日、フレディのお母さんJerさんのインタビューがThe Times誌に掲載されました。
フレディの命日にあたり、全文を翻訳させてもらいました。 いたらない訳文ですが、読んでいただけましたら嬉しいです。
Jer & Bomi Bulsara夫妻はフレディ・マーキュリーのほとんどのコンサートに足を運んだが、 1985年7月13日に、彼等の息子が文字通り世界をロックさせたライブエイドには行かなかった。 Jerさんは「あれはとても大きなイベントでしたらかね。大変なことになると思って。」と振り返る。
「それで家でテレビを観ましたが、それはもう嬉しかったわ。 夫は私の方を見て、『うちの息子、やってくれたな!』って。」
マーキュリーのステージにおける派手で、堂々とした姿と、 Jerさんが現在住んでいるノッティンガム郊外の完璧なまでに手入れの行き届いた小さな家とは、なかなか結びつかない。 彼女の子供たち、FreddieとKashmiraは、二人の名前をあわせて「Fredmira」と呼ばれている。 ふっくらしたクッション、時報を打つ時計、地味な装飾などは、ロックの神様の母親が住む場所には見えない。
彼女が愛してやまないフレディの美男俳優然としたスチール写真だけは違う (小柄なJerさんのふっくらした唇と顔中いっぱいの笑顔は息子によく似ている)。 部屋の隅には息子がロックンロール・ホール・オブ・フェームを受賞した記念の彫像があり、 壁にはフレディが14歳のときに描いた白と黒2頭の馬の絵がかかっている。
マーキュリーの人生は対照的なものを集めたゲームのようだった。 彼は、アニメチックで、「ラジオ・ガ・ガ」や、 かの有名な「ボヘミアン・ラプソディ」といった賛歌的な曲を熱唱するショーマンだった。 その一方で、彼はかたくなに私生活を守り、口調は穏やかだった。 また、大がかりで狂気じみたパーティー(噂ではこびとがコカインをふるまっていた)を開きつつ、 英国にいるときは週に一度は母のもとを訪れて、大好物(dhansak)を食べ、「普通の家族の会話」をしていた。
フレディは1974年に「New Musical Express」とのインタビューで、 「ボクはラッパ水仙(ギリシャ神話ではナルキッソス)と同じくらいゲイだよ」と語ったが、 公の目には触れることはなかった。彼は故意に自分自身をミステリーで覆い隠す保守的なセレブになった。
そして1991年11月23日、マーキュリーは声明文を発表する。 「過去2週間、マスコミの多大な憶測がありましたが、私はHIVテストで陽性であり、 エイズであると診断されたということをを明らかにしたいと思います。 今日まで公にしなかったのは私のまわりにいる人たちのプライバシーを守る為に正しいことだったと信じています。 しかし、私の友人達、世界中のファンの皆さんに本当のことをうち明ける時が来ました。 皆さん、どうか私の医師達と、この重病と闘うあらゆる国の方々と思いをひとつにして下さい。 私にとって私生活を守ることは大切なことで、これまでインタビューを受けてきませんでした。 今後もそのようにすることをご理解いただきたいと思います。」
翌日、マーキュリーはエイズによる気管支肺炎で死亡した。 彼が生きていたら火曜日に60歳だった。 その日は数多くのイベントがあり、彼の家とブロンズ像があるモントレーは追悼デーがあり、 ロンドンでは写真展が催され、ITVドキュメンタリー(番組)が彼の人生と遺業について検証する。 息子同様、母であるJerさんもインタビューはほとんど受けない。 しかし彼女は息子が人々の心に残り、讃えられることを望んでいる。 彼女はインタビューの間ずっとティッシュを握りしめていた。傍らにはKashmiraの夫、Roger Cookeが同席した。
つづく・・
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Re: インタビュー記事関連の翻訳(No.2) ( No.16 ) |
- 日時: 2006/11/27 09:02
- 名前: メイド院
- マーキュリーはFarrokh Bulsaraとしてザンジバルで生まれた。
家族は海を見渡せるフラットで「快適な暮らし」を営んでいたと83歳のJerさんは言う。 ファルーク少年は快活で音楽、彼女が言うにはフォーク、オペラ、クラシックを愛していたという。 彼が8歳のとき、インドの寄宿学校に入ることになった。 「私はあの子の側を離れるときに泣いてしまったんですけど、 あの子はすぐに他の子たちに溶け込んでいました。」とJerさんは振り返る。 その学校でFreddieという名前(少年達は英語のクリスチャンネームをつけられていた)をもらい、 The Hecticsというバンドを結成した。
Jerさんは、息子は反抗的ではなかったと静かにはっきりと強調した。 「でもね、いつもショーマンになりたがってました。」 1964年、ザンジバルでの革命勃発の折り、一家は英国に渡り、 ウェストロンドンのFelthamに落ち着いた。 「フレディはとっても喜んでいました。『イングランドは僕が行くべき場所なんだよ、ママ。』 でも、そう容易いものではありませんでした。」 Bomi氏は出納係として働き、JerさんはMarks & Spencerのアシスタントの職を得た。
フレディは美術学校に入った。 「何になるつもりなの?とあの子に聞いたら、分からないって。 フレディが仕事の応募用紙を書き込みながら、『受からなきゃいいな。』と言ってたのを覚えているわ。」 フレディは、テレビでエルビスプレスリーを観て、 「僕はいつかこの人みたいになる。」と宣言し、名字を彼の守護星にちなんでMercuryに変えた。
クイーンは1970年代はじめに結成された。 Jerさんはクイーンの初めてのギグに行ったことを覚えている。 「ブライアン・メイのお母さんと私は『あの子たちやっていけるのかしら』と話しました。 あの夜、私は『大丈夫』って思いましたよ。」息子が有名になった後も彼女はM&Sでの仕事は続けた。
Jerさんは、マーキュリーの大胆なステージ上の人格をどう思っていたのだろうか? 「あれはパフォーマーが観客を喜ばせるためのものでした。」 では、パーティーやヘドニズムは? 「親としては心配はしますけど、子供には子供の人生を歩ませてやらないといけないでしょう。」 Roger Cookeが口を開いた。「フレディは自分の人生を仕事、社交関係、家族というようにきちんと区別していました。 彼はそれぞれの境界線をはずさなかったんです。」 Jerさんが続けて、「フレディは家族を尊重していたし、本当に愛してくれてました。」
Jerさんは息子がゲイだということは知っていたのだろうか?告白したのか? 「いいえ。」彼女は感情がこみ上げて来たように、ティッシュを握りしめて下を向いた。 Roger Cookeが「デリケートなことですから。」と言い、マーキュリーは家族には一切話さなかったと付け加えた。
少しして、リラックスした頃、J erさんはフレディは人が彼をゲイだと知っても、どんなふうに思っても気にしなかったでしょうと言った。 しかし、マーキュリーは公に言うことははばかった? 「あの頃は、今とは社会が違ってましたよ。」とJerさんは言う。 「この頃は何でもオープンになってるでしょ?」彼女は、もし今日息子が生きていたら、 彼ももっとオープンになっていたのではないかと語る。
Roger Cookeはマーキュリーはカミングアウトすることで レコードセールスに影響を及ぼすことを心配していたから自然とプライベートになったのかもしれないと言う。 「フレディは、『自分の人生は自分で決める』という人だった。 恥ずかしがったというのとは違うね。プライバシーを守ったんだ。」 「フレディは私たちに心配をかけたくなかったんですよ。」とJerさんは言う。 「家族を巻き込みたくなかったのでしょう。」 Roger Cookeは、「彼は人を違ったグループに分けて考えていたんです。」 「フレディは家に帰ってくると、彼自身になってました。」と、Jersさんは言う。 「彼は現実的でした。」Roger Cookeが付け加える。 「フレディのことを考えるとイーグルスの歌を思い出しますよ。 ・・・人生は良くなったけど。この幸運と名声を操るのは難しい。みんな変わってしまった。 僕はちっとも変わっていないのに。」
つづく・・
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Re: インタビュー記事関連の翻訳(No.3) ( No.17 ) |
- 日時: 2006/11/27 09:04
- 名前: メイド院
- フレディの病気についてはどうっだのでしょう?
マーキュリーの最後の6年間をパートナーとして過ごしたJim Huttonは、 「Mercury and Me」という著書のなかで、1987年に陽性の検査結果を得ていたと述べている。 Jerさんは再びつらそうにして、目をそらしてしまった。
Roger Cookeが答えた。「彼は家族の誰にも話しませんでした。 僕らはフレディが病気だということは段々と気が付きはしたけど、 一体何なのか、どんなに深刻なのかについてはまったく見当も付かなかったんです。 そして、1990年8月、妻(Kash)と僕はフレディの足にあざのようなものを見つけたんです。 カポジ肉腫(エイズによる結合組織の悪性腫瘍)だったんです。 Kashがそれは何なのか、良くなるものなのかと尋ねるとフレディは、 『僕の病気は助からない。僕は死ぬんだ。』とだけ言いました。エイズだとは言わなかった。 すぐには呑み込めませんでした。僕と妻は車で自宅に戻る途中、カセットをつけたんです。 そしたらよりによってフレディが歌う『Who Wants to Live Forever?』がかかった。 突然、フレディが言った事の重大性が現実味を帯びたのです。」
では、エイズについてもっとフレディがオープンにしていたら、 もっと良い結果が出ていたのではないかという批判についてフレディはどう思ったでしょうね? Roger Coookeが答えた。「フレディなら、『F*** ’em。余計なお世話だ。』と言ってたでしょうね。 唯一、マネージャーのジム・ビーチだけがフレディに声明を出すことを説得したんです。」 Jerさんが静かに言った。「フレディは世界の人々とファンに本当のことを知ってもらいたかったんですよ。」
マーキュリーは一度、母親に引退して画家になろうかなと言ったことがあったそうだ。 「私たちは笑ってあの子に、そんなことさせないわよって言いました。 だって、フレディは永遠に歌っていくと思ってたんですもの。」 Roger Cookeが最後にフレディに会ったときは、「普通の話をしたよ。病気のことじゃなくて。」 フレディは日本庭園の池の水を見つめていた。 Jerさんは、自分の息子に最後に会ったときのことを静かに話した。 「私はとても動揺していました。辛かったわ。 フレディが、『ママ、大丈夫?マスコミにいじめられてない?』と聞くので、 『いいえ。私たちのことは心配しなくていいのよ、フレディ。』って言いました。 あの子はすごく具合が悪くて、それなのにまだ私たちのことを気遣ってくれたんです。」
フレディの死後、多くのタブロイド誌が彼のことを書き立てたが、 その中にフレディは自分がインド人であることを隠していたというものがあった。 Roger Cookeが、「だけど、フレディはインド人ではありませんよ。 彼はパルシー教徒(インドのペルシア系ゾロアスター教徒)でした。 パルシー教徒はインドに根付き、ちょうどユダヤ人が他国の文化に同化したようにインド文化に吸収されたのです。 実際、パルシー教徒は、インドのユダヤ人として知られています。」 しかし、一度もそのことについて語らなかったのは? 「フレディにとって過去は過去です。彼は未来のことだけを話してました。」
マーキュリーの曲がラジオでかかると、Jerさんは辛くなることがあるという。 彼女の好きな曲は、「Somebody To Love」。 フレディの優しい声は彼を思い起こさせて悲しくなる。 Bomi氏が3年前に亡くなり、Jerさんはぽっかり穴があいたようだという。 しかし、彼女は自分を忙しく保っている。 それに道ばたやスーパーマーケットで自分が誰であるかを気が付かれることにも慣れてきた。 先日はある男性から「とてもお元気そうで何よりです。」と声をかけられたそうだ。
Jerさんは、親が最も経験したくない、 我が子に先立たれるという苦しみを通ってきた。そしてかつて息子が家族に対してそうであったように、 今では彼女が息子を強く守ろうとしている。 彼女の励みとなっているのが、 「ノッティンガムのフレディ・マーキュリーのお母様へ」と宛名書きされた沢山の手紙だそうだ。 フレディの曲がどれほど人々の人生に影響したかがつづられている。 Jerさんは、もしフレディが今も生きていたら、ロック・オペラを作曲していたのではないかと言う。 フレディはインタビューで、自分は天国より地獄に行きたいと思っていると言ったことがある。 「あっちではきっと凄く興味深い人たちに会えると思うんだよ。」
Jerさんはインタビューを終えたあともずっとティッシュを握りしめていた。 しかし少しも悲劇的で孤独な人らしいところはなかった。 彼女は、まるでマーキュリーが(おそらく耽楽的な)60歳の誕生日を祝っていたらと想像させるように、 楽しそうに笑った。 ザンジバルからノッティンガムへの道程は長かった。 しかし、彼女の愛する息子がそうであったように、 Jer Bulsaraさんもこのとてつもない旅を楽しんだのであろう。
イン・マイ・ディフェンス http://www.youtube.com/watch?v=9f3HcT9toww&mode=related&search=
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