第1次オイルショックの影響は大きく、1975年には有名企業の倒産が相次ぎ、派手なスポーツカーや高級車が陰をひそめます。
しかしそれで注目され始めたのが安全で燃費の良い日本の自動車でした。また3月には山陽新幹線の岡山−博多間が開通し、
「ひかりは西へ」というキャッチフレーズで東京から博多までの全線が開通しました。こうして1974年のマイナス成長から
徐々に回復していく日本。
一方、英国は、というと、この年から北海油田により最初の商業生産が始まりました。
しかし労働党政権により第1次オイルショック後のイギリス経済は衰退の一途を辿ります。
その労働党から後に政権を奪うことになる保守党に、この年の2月、党首にマーガレット・サッチャーが選出され、
初の女性党首が誕生しました。
(注:首相になるのはこの4年後です。)
さて、クイーンにとっての1975年の幕開けはジョン・ディーコンの結婚式というお祝い事でスタートしました。
しかしバンドにとってはトライデントとの亀裂が大きく、クイーンは1972年の秋に交わしたトライデントとの契約に悩まされ続けます。
その問題解決のために音楽専門の弁護士ジム・ビーチを雇いますが、その交渉は予想以上に長引きます。
ちなみに、3枚目のアルバム『シアー・ハート・アタック』が英国で大ヒットした後、
トライデント側はそれまでのクイーンの週給を20ポンドから60ポンドに引き上げています。
60ポンドというと今現在で換算すると1万円以下になりますが、
1975年当時の日本は、1ドルが約300円。1ポンドは約650円という時代です。
また当時のイギリスの週給を調べていたら、【医薬品の卸業であるウェンブリーの倉庫長の週給が60ポンド】と書かれてありました。
「キラー・クイーン」が大ヒットしてもクイーンは倉庫長と同じ週給だったわけですね。
1月31日、クイーンはトライデントとの問題を抱えたまま、初のヘッドライン・アメリカ・ツアーに出発します。
この時のアメリカ・ツアーのセットリストを調べてみると、
74年10月からスタートした英国ツアー(18会場19公演)と、その後のヨーロッパ・ツアー(6カ国10公演)のものと
ほとんど同じですが、「Son And Daughter」にギター・ソロが、「Keep Yourself Alive」にドラム・ソロがそれぞれ入っています。
また特筆すべきは、74年10月の英国ツアーから初めて、
「In The Lap Of The Gods〜Killer Queen〜The March Of The Black Queen〜Bring Back That Leroy Brown」をメドレーで取り入れている事。
そしてファンには、おしまいの曲としてお馴染みの英国国歌「God Save The Queen」を、この時から既にセットリストの最後に入れている事です。
しかも、これだけ過密なツアー・スケジュールの中において、
「Now I'm Here」を始め、3枚目のアルバム『シアー・ハート・アタック』から7曲もセットリストに組み込まれています。
ということで、このアメリカ・ツアーでは2月下旬にフレディの喉が悪化して、いくつかの公演をキャンセルしたものの、
8週間で38公演を遂行。その後クイーンはハワイで短い休暇を過ごし、いよいよ、シアー・ハート・アタック・ツアーの最終地であり、
初めての日本ツアーへと向かいます。
4月17日 18時25分。
クイーンのメンバーを乗せた日本航空機が定刻より1時間以上遅れて羽田空港に到着しました。
この時の模様は飛行機が着陸するシーンからフィルムに収められていて、
ホテルの庭園でのお茶会や4人それぞれの自己紹介、公演初日のライヴでのカットも盛り込まれドキュメンタリー・フィルムとして、
後に日本各地で、初の“クイーン・フィルム・コンサート”という名称で上映会が開催されました。
それは地方の小さなレコード屋さんでも開催されていただけに、おそらく、当時の多くのクイーンファンの記憶に刷り込まれていったと思われます。
その結果、この時の羽田空港に押し寄せた1200人とも言われている日本のクイーンファンの熱烈な歓迎ぶりも含めて、
日本では、“クイーン人気は日本で最初に火がついた”という伝説的フレーズが生まれたのではないかと推察します。
また、“クイーンの登場によってロック少女が出てきた”と何かの雑誌で読んだことがありますが、
そもそも、70年代初頭のロックというと、親たちに言わせれば、"やかましい!"であり、コンサート会場ではバカ騒ぎをする、という概念を持たれていたと
同時に、当時のロックファンのほとんどが、“ロックとはなんぞや?”という疑問を抱きながらロックを聴いていた時代でもあったと思います。
そしてその頃からもちろん婦女子のロックファンも多く存在していました。
ただ、その頃はまだロック少年とかロック少女という言葉があまり使われていなかっただけだと思います。
はっきり言って、クイーンが登場する以前から、婦女子のロックファンはロバート・プラントとかマーク・ボランとかデヴィット・ボウイなどが放つ
“耽美派イメージ”を早くから追い求めていました。
でも70年代の日本の男といえば、番長とかゲタとか濃すぎる眉など耽美派イメージからは程遠〜く、
それで益々その時代の婦女子は洋楽ロックに傾倒していった、という事も言えると思います。
そして低年齢層のクイーンファンが日本の地方でも急増していったのは
クイーン初来日の後だったと思います。って、それは私が地方に住んでいたから知らなかっただけなのかもしれませんが・・・。
昭和49年〜50年当時は、地方まで情報があまり入ってこない、または、情報が届くのが遅い、という状況でした。
初来日公演にしても、「武道館」では1万人近く入ったとしても、「地方公演」となると、会場が小さいというのもありますが、
それでもキャパの半分程度(1500〜1600人)の来場数だったことは事実です。
しかし初来日後から、地方に居てもクイーンが身近に感じられるような情報を得られるようになっていきました。
ミュージック・ライフ誌の増刊号です。
この年に初めてミュージック・ライフ誌はクイーンのメンバーのオフショットを満載にして、
メンバーの生の声が聞けるソノシートを付録にした“クイーン写真集”を発売しました。
これは当時としては極めて珍しいことで、それまでミュージシャンたちの写真なんて、中々お目にかかれなかった時代に、
オフショットの写真やメンバーの生の声が聞けるなんて事は、しつこく追っかけでもやらない限り、あり得ない事でした。
とにかくそれは当時とても画期的であり、
いつの時代も、“流行”に敏感なのは若い女の子たちであるように、
それらに低年齢層のクイーンファンが飛びつくのは早かったと思われます。
また、その後もミュージック・ライフ誌はクイーンのグラビア満載でしたから、この時代、学校には持ち込み禁止であっても
それをこっそり持ち込んで、回し読みしていた少女たちというのは少なくなかったと思います。
そういう個人的な印象から“クイーンの登場によってミュージック・ライフ誌が画期的になり、
それによって地方のロック少女たちも増えていった”という見方も出てきます。
しかしそうしたクイーン人気は、“ビジュアル先行型だ”と言われても、それは仕方ありません。
当時のクイーンのキャッチ・コピーは、“ロックの貴公子”でしたし、美形揃いのクイーンに女の子たちの溜息と黄色い声が先行するのは当然でしょう。
ただ、日本では一部のロックファンから、“クイーンは女・子どもが聞くバンド”と言われ始めます。
それは後に、男のロックファンvsクイーンファンの間で激しい論争にまで発展していきましたが、
個人的に一番残念に思ったのは、英国で「ボヘミアン・ラプソディ」が大絶賛されてチャートの1位を独占していたというのに
日本ではそんな論争が繰り広げられていた事です。
ちなみに、75年当時の日本のオリコン・シングルチャートの記録を調べたら、
「キラー・クイーン」が27位で、「ボヘミアン・ラプソディ」は48位となっていました。
以上、4月はクイーンが初めて来日した月として、1975年を振り返ってみました。
この年、九州の田舎のレコード屋でも初めてクイーンのポスターが貰えるようになりました。
ほんの半年前までは無名に近いバンドだったのに、いつしか“クイーン”というプレートまで出来て、
この年の冬に発売予定の『オペラ座の夜』には予約特典まで付くようになりました。
凄い勢いでトップスターの座に駆け上るクイーン。しかしこの後、初期クイーンから“脱皮"するかのように変化していきます。
updated:2011/ 4.24