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クイーン結成40周年記念企画!掲示板入り口特集「今月は何の日?」

風薫る五月となりました。若葉の鮮やかな季節ですが、夏に向けて、益々の節電対策を考える今日この頃です。
さて、今月の特集は1977年です。この年の5月23日からエリザベス女王戴冠25周年に捧げられた 英国サマーツアーが開始されました。って、正直に言いますと、それは1977年を特集したい“こじつけ”です。すみません。 しかしクイーンの歴史を辿る上で、1977年という年はどうしても外せません。
この年クイーンはアメリカ・ツアーを年に2回も行っています。そのアメリカ制覇に向けての意気込みはこの年の新作アルバムにも感じられます。
ということで今月は1977年(昭和52年)の日・米の歴史を調べてみました。

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1977年1月、民主党のジミー・カーターが大統領に就任する1週間前、クイーンはウィスコンシン州のミルウォーキーでアメリカ・ツアーの初日の幕を開けました。
この時の前座は最初の数回はチープ・トリック(1974年結成。デビューは1977年)と、ヘッド・イースト(1970年結成。デビューは1975年) という、どちらもアメリカ出身のバンドが務めていますが、その後ほとんどはアイルランド出身のシン・リジィ(1969年結成。デビューは1970年)で、 ツアーのタイトルも“クイーン・リジー・ツアー”と付けられています。(クィンリジー・・ィンリジー・・シンリジー・・!?)

ところで、この年の日米関係を調べてみると、カーター大統領は就任早々に副大統領を西ドイツと日本に訪問させています。 その目的は、第一次石油危機後の世界不況を克服するために、経済が比較的順調であった日本と西ドイツに 世界景気を(けん引車となって)引張ってほしいとお願いするためでした。
これに対して西ドイツは我が道を行く!と蹴りましたが、日本はこの年の3月に開催されたロンドンサミットでも 特に不況の激しかったEC諸国から切望され、経済成長率の実現を国際公約とされてしまいます。 (結局その公約は果たせずに終わってしまいますが)、それだけ当時の世界経済の落ち込みは深刻だった中において日本の 国際収支の黒字幅は拡大を続けていたのです。

では、この年に来日したアメリカのバンド、ミュージシャンは?と言うと・・・
当時のミュージック・ライフ誌でクイーンと共に“ロック御三家”としてお馴染みのキッス、エアロスミスを筆頭に、 ランナウェイズ、レナード・スキナード、ジャニス・イアン、サンタナ、スリー・ディグリーズ、そしてフリートウッド・マックなど結構多く、 いずれもこの当時、日本でも大ヒットしたミュージシャンばかりです。
ちなみに、この年、アメリカのビルボード年間アルバムチャート1位は『Rumours(噂)/フリートウッド・マック』です。 このアルバムは全英でもオーストラリアでも1位を獲得しています。

さて、クイーン・リジー・ツアーに話を戻しましょう。
今回はカナダでの7公演を含む全41公演で、 バンドとしての夢でもあったニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンやモントリオールのザ・フォーラムなどの有名な会場で 初めて2万人以上もの大観衆を前にプレイするだけあって、ツアーをスタートする前にボストンで10日間もリハーサルに費やしています。
このツアーでのメンバーのステージ衣装は、 昨年9月のロンドン、ハイド・パークでの衣装と同じですが、フレディの髪型がちょっと変化(パーマかけて短くなった?)しています。
またセットリストを見ると、当時発売されたばかりのアルバム『華麗なるレース』から「White Man」「Somebody To Love」 「The Millionaire Waltz」「You Take My Breath Away」が加えられ、「The March Of The Black Queen」は外されたものの 「Ogre Battle」や「White Queen」「Liar」といった初期ナンバーはそのまま。 ただし、今回からオープニングが「Tie Your Mother Down」のスタジオバージョンのギター・イントロに変わり、 「Bohemian Rhapsody」がオペラ・パートをライトショー演出にして完全版で演奏されています。
この時のアメリカ・ツアーについてジョン・ディーコンは「とてもエキサイティングで大きな会場でのショーはアンコールを2回も3回もやらないと ステージを降りられないほどだった」とコメントしています。

3月下旬にアメリカ・ツアーから戻ったクイーンは5月から今度は2年半ぶりとなるヨーロッパ・ツアーに出かけます。 ただしドイツ、オランダ、スイスの3カ国5公演だけで、スイスのバーゼルでのコンサートの翌日にはロンドンに帰国しています。
余談ですが、その帰国の翌日、4曲入りのEP盤「A面:Good Old-Fashioned Lover Boy/Death On Two Legs B面:Tenement Funster/White Queen」が 英国のみで発売されました。従来の2曲入りシングル盤と同じ値段とは言え、既発曲をこのタイミングで出したのはどういう意図があったのでしょう? 当時の音楽誌から、"再び形を変えて発表するのは詐欺みたいなものだ!"と批判されていますが、それでもチャート17位を記録しています。


1977年という年は、エリザベス女王が戴冠して25周年目にあたり、国中で多種多様な行事が予定されていました。 しかし冒頭に書いたようにイギリスは多量の失業者が発生して不況のどん底にあり、それらの開催は困難を余儀なくされていました。
当時の日本の音楽雑誌でも、税金対策のためにイギリスを離れるロック・アーティストたちの事は記事になっていた程です。
しかしそんな状況の中、クイーンは5月23日から「英国サマー・ツアー」をスタートさせます。
しかも、5万ポンドもかけて王冠をモチーフにした巨大で美しい照明装置が作られ、 それはエリザベス女王のパレードが行われる6月7日のロンドン・アールズ・コートで初お披露目となりました。 そしてクイーンはこのショーの収益を女王即位25周年(シルヴァー・ジュビリー基金)に寄付しています。
ちなみに、その女王即位25周年祝典の日にゲリラ・ライヴをやったバンドがいました。セックス・ピストルズです。 彼等はテムズ川のボート上で女王を罵る英国国歌と同名の「God Save the Queen」を演奏しましたが、(当然)逮捕されています。

ロンドンではこの年の以前からパンク・ムーブメントが吹き荒れていましたが、クイーンには、どこ吹く風の如く! その時のアールズ・コートの開演前のBGMにフレディは大好きなショパンの曲を流し、 この時代のフレディの代名詞とも言われる白黒ダイヤ柄タイツや白橙緑のダイヤ柄タイツ、銀のスパンコールタイツの衣装で、 しなやかな肢体を見せつけました。
破れた服を安全ピンで留めるファッションとは大違いです。
もちろんそれは、この時のブライアン、ロジャー、ジョンのステージ衣装にも 言える事で、クイーンというバンドそのものを表現しているかの様に4人それぞれが個性的なデザインでありながら、 ベースカラーに白と黒を取り入れているところに統一感が感じられます。

さて、英国サマー・ツアーのあと、次のアルバム製作に入ったクイーンは僅か10週間でレコーディングを終わらせます。 そして10月7日には英国で「We Are The Champions/We Will Rock You」が先行シングルとしてリリースされ、 同月28日には6枚目となるアルバム『世界に捧ぐ』が発売されましたが、英国では初めてアルバムチャート4位止まりという結果に。 日本においてもオリコンチャートで初のナンバーワンとなったアルバム『華麗なるレース』に続くことは出来ませんでした。 しかし、そんな日本と英国での結果とは逆転したのがアメリカです。

11月4日から今年2度目となるツアーに向かったアメリカでは、「We Are The Champions/We Will Rock You」は両A面扱いで発売され、 「We Are The Champions」は大リーグのニューヨーク・ヤンキースの応援歌に、 「We Will Rock You」はアメリカン・フット・ボールのファンに歌われるなど、シングルチャートではレコード・ワールド誌において 初めてナンバーワン・ヒットを記録。アルバムの方も6枚目にして初めて全米アルバムチャートで3位という過去最高を記録しました。

この頃のクイーンは2年前から続いていたエレクトラへの許諾料の支払契約に強気の姿勢を示していて、 契約反故の賠償金を請求されても自分たちはやっていけるという強い自信を持ち、またそれはマネージメントに関しても同じでクイーンは独立を目指します。 そういうバンドの強い自信は2度目のアメリカ・ツアーにおいても発揮されたようで、今回は前座バンドは無く、 セットリストにはアルバム『世界に捧ぐ』から「We Will Rock You(Slow&Fast vr)」、「Get Down Make Love」、 「Sheer Heart Attack」、「Spread Your Wings」、「My Melancholy Blues」そして後に「It's Late」も追加され、 それまでの「Sweet Lady」、「Ogre Battle」、「White Queen」、「Liar」といった初期ナンバーが外されています。
個人的には『世界に捧ぐ』のアルバムはレコードで聞くには苦手な曲が多いのですが、ライヴで聴くとその印象が変わります。 特にこの時のテキサス州ヒューストン・ライヴでは、クイーンのこれまでとは違ったシンプルでストレートなナンバーを、 これまで以上に自信をつけたメンバーたちによって、これまでにない素晴らしいパフォーマンスが見られます。
ちなみに、この時にブライアンとロジャーはロンドンからコンコルドを予約して 両親をニューヨーク公演に招待するというセレブな親孝行を実現しています。


以上、今月は1977年を振り返ってみました。
この年、(何故か)地方のデパート催事フロアーでは、よく洋楽ロックの海賊盤LPレコードが売られていました。 ほとんどが1000円〜2000円という値段で、そこにはもちろんクイーンの海賊盤も必ずと言っていいほどありました。 まさかそれらが20年後には西新宿辺りで10倍の値段で売られることになるとは知る由もありませんでしたが、 この年の3年後、クイーン初のライヴ・アルバムが発売されます。ただ、それはその年の日本公演の“後”のリリースでした。



updated:2011/ 5.01