1974年の幕開けは前年からの第1次オイルショックにより、日本でもイギリスでも経済の停滞と物価の上昇が共存するスタグフレーションに陥ります。
その為、省エネ・節約時代に入る日本。ガソリンスタンドは休日閉店となり、節電のため大都市の広告ネオンが消えます。
それは英国でも同じで、イギリス政府は大手企業に電気消費量の制限を呼びかけます。そのためクイーンは当初予定されていた英国ツアーと
セカンドアルバム「QUEEN II」の発売を延期しています。
しかしそんな苦境に立たされた1974年、日本では「戦慄の王女」が3月に、「クイーンII 」が6月に、
そして「シアー・ハート・アタック」が12月と、クイーンのアルバムは1年の間に3枚も立て続けに発売されました。
ちなみに、自分が記憶している範囲ですが、それまでLPレコードは1枚1800円〜2000円が標準価格でした。
それが1974年に入ると、2200円〜2300円になり、1975年には2500円に値上げされました。
さて、1974年に話を戻しましょう。
1974年の3月1日、クイーンは英国内で初のヘッドライン・ツアー「QUEEN II ツアー」をスタートさせます。
当時このツアーに関してフレディは次のように語っています。
「セカンドの楽曲はステージで再現するのはかなり難しい。
ステージでは最初のアルバムからの曲がほとんどで新しい曲は2曲くらいしかやっていない。
でも徐々に新しい曲を紹介して変えていくつもりだ」と。
この時のツアーのセットリストを調べると、
セカンドアルバムからの曲は、「Procession(tape)」、
「Father To Son」、「Orge Battle」、そして「White Queen」が入っており、
ツアーの最終には当時英国で発売されたばかりのシングル、「Seven Seas Of Rhye」が演奏されています。
それからこの時のメンバーのステージ衣装はザンドラ・ローズがデザインを手掛けていて、
ツアータイトルを示すかのように白と黒を基盤にして、込み入った飾り付けがほどこされています。
ちなみに、この時のいくつかのステージショットは日本盤LPレコード「シアー・ハート・アタック」の
ライナーノーツの裏で見ることができます。
そして、それまで延期されていたセカンドアルバム「QUEEN II」が3月8日に英国で発売されます。
日本では3月25日に、やっと!デビューアルバム「戦慄の王女」が発売されました。
しかし、英国でのセカンドアルバム発売も、“やっと!”と言うべきなのかもしれません。
なぜなら、クイーンはセカンドアルバムのレコーディングを73年の8月中には全て終わらせていて、
73年9月13日のゴルダーズ・グリーン・ヒポドロームでのステージから「Procession(Tape)」、「Father To Son」、「Orge Battle」を
既にセットリストに入れていたからです。
当時のイギリスのメディアからは、デビューアルバムに対してもセカンドアルバムに対しても、あまり好意的な批評は得られていませんでしたが、
クイーンはこうした地道なライヴ活動によって、着々とレコードの売り上げを伸ばしていました。
その証拠に、「QUEEN II ツアー」によって、セカンドアルバムのチャート上昇はもとより、デビューアルバムまで再びチャートインさせています。
また、英国内でのツアーの後、クイーンはモット・ザ・フープルの前座として4月から初のアメリカ・ツアーを行います(途中、ブライアンが
肝炎のため残り18公演はキャンセル。)、しかしこのツアー開始と共にセカンドアルバムが4月9日にアメリカで発売され、英国と同じように
アメリカでもクイーンはツアーによってレコードの売り上げを順調に伸ばしていました。
一方、日本では、英国に続きアメリカでもセカンドアルバムの売り上げが伸びていることで、お尻に火が点いたかのように、
デビューアルバムの発売からたった3ヶ月という短い期間で、セカンドアルバム「クイーンII 」が発売されました。
・・・これはその当時、近所のレコード屋にはセカンドアルバムしか置いていなかったという個人的な体験からの憶測ですが、
日本においても英国と同じように、「クイーンII」の好調な売れ行きに引っ張られるようにして、
「戦慄の王女」が浮上してきた状況にあったのではないかと思えて仕方ありません。
さて、クイーンの日本盤LPレコードには特有のライナーノーツがありますが、先ず、「戦慄の王女」での大貫憲章さんの解説は、
そのほとんどがクイーンへの熱い思いと期待で満ち溢れていて、ほめ殺しとも取られそうなほどクイーンを大絶賛しています。
しかし、これは1974年の1月に書かれたものであり、しかもその時点で、“この日が来るのを待ち焦がれていた”という大貫憲章さんは
クイーンに対してかなり早くから注目していた事がわかります。
そして、「クイーンII 」では冒頭の直筆のサインが印象深い福田一朗さんが解説していますが、
イギリスでの酷評とは裏腹にこのアルバムがしっかりチャートインしている事を鋭く指摘しています。
それとは別に、この時のレコード会社のクイーンに対する期待度は?というと、
福田一朗さんが解説の中で、"エレクトラから送られてきた乏しい宣伝キット"と、チクリと書いている事から、
おそらく、1974年初頭の時点ではその期待度は、かなり低くかったのではないかと思われます。
しかし、そんなレコード会社とは180度違ったのが、あの「ミュージック・ライフ誌」です。
1974年から水上はるこさんが編集長となったミュージック・ライフ誌は、
いきなりクイーンを大プッシュし始めます。それはまるで、クイーン人気という名の
ダイナマイトの導火線に火をつけるかのようにクイーン売り出し大作戦が開始され、そしてそれはジリジリと火花をあげながら、
1974年の終わり、3枚目のアルバム「シアー・ハート・アタック」の発売とともに、そのダイナマイトは大爆発を起こします。
以上、今月は日本でデビューアルバムが発売された月として、1974年を振り返ってみましたが、
クイーンにとって1974年は、満を持して色んな事が動き始めた年という感じがします。
クイーンが遠い日本での、予想を遥かに超えた自分たちの人気に驚くのは、この翌年のことです。
updated:2011/ 3.01