この年は、イラン革命が引き金となり第2次オイルショックが起こりました。
しかし日本では第1次オイルショックでの学習効果や省エネルギー政策の浸透などにより、
日本経済に対する影響は第1次ほど酷いものにはなりませんでした。
また、英国では北海油田開発の成功により黒字を維持することができました。
そして1979年5月、英国ではヨーロッパ初の女性首相にマーガット・サッチャーが就任。サッチャー首相はそれから11年もの長期政権を構築していきます。
一方、日本ではこの年の首相は大平正芳氏で、それ以降は概ね短命内閣が続くことになります。
しかし、大平正芳氏は戦後日本を代表する外政家といわれ、
その政治思想や経済観の先見性は今日顧みられることが少なくないと言われています。
また、サッチャー首相と大平首相のもう一つの共通点としては有名な異名を持っていることでしょうか。
サッチャー首相は「鉄の女」。大平首相は演説や答弁の際に「あー」「うー」と前置きをする事から
「アーウー宰相」と呼ばれていました。
さて、埼玉県所沢市に西武ライオンズ球場が完成した1979年4月(注:クイーンが西武ライオンズ球場で演奏したのは5度目の来日の時。)
クイーンはこれまでにない大掛かりなステージセットを持ち込んで来日しました。
といってもアメリカやヨーロッパと比較すると小さい規模だったようですが、
しかしこの時は前回の来日から3年も待たされただけに、やっと来た!という印象を持ったファンは多かったと思いますし、
来日前からQFC-Japan会報でもその大掛かりなステージセットについて話題沸騰でした。
しかも個人的にはそれまでずっと親に反対され続けてきて、この年に(高3)になってやっと親から、“行ってヨシ”といわれた
初のロックコンサートであり、初のクイーンコンサートだっただけに異様に興奮していました。
あ、武道館ではなく地方の公演ですが・・・。
1979年4月30日。向かった先は福岡九電体育館。(福岡はその翌日と合わせて2回公演でした)
この時、私の席はブライアン側というか、ブライアンがちょうど真正面に見える位置で、
ステージ上のメンバーが肉眼でしっかり見えていたので多分真ん中くらいの席だったと思います。
というのも、正直、今ではこの時の記憶がほとんど残っていません。
頭の片隅に残っている当時の様子も、自分の席の回りの人たちしか浮かんできません。
(そういうのって私だけでしょうか?)
覚えている事といえば、フレディは写真で見るよりすごく細いっ!と思った事です。
あとは、この時、高校3年生といえど、まだまだ子どもで、お金も親に強請って貰ったものだったから、
コンサートパンフレットとかクイーンのTシャツは売ってあるのを眺めるだけだったし、
会場では回りの人たちが、“ロジャ〜!フレディ〜!”と叫んだら、
自分も負けじとメンバーの名前を叫び、手拍子が起これば自分も夢中で手拍子をする、という感じで、
完全に回りの人たちに左右されていました。
それになんといっても、本物が実際に目の前で演奏してるという事に、かなり舞い上がっていて、
ステージの物凄いライトと会場の物凄い熱気にも圧倒されて、正直、最初から最後まで何がなんだか分からないといった状態でした。
当然、セットリストなんて細かく覚えちゃいません。
ただ、そのコンサートを観たあと、当時よく聴いていたラジオ番組(渋谷陽一のサウンドストリート)で、
まだその時は発売前だった『LIVE KILLERS』の特集があり、「Let Me Entertain You」が流れてきた瞬間、
“ああ、自分はクイーンのコンサートを観たんだ”という実感が湧いてきたのを何故か鮮明に覚えています。
日本では1979年6月25日に『LIVE KILLERS』が発売されました。
またその翌月にはミュージック・ライフ誌がそれまでのクイーン来日後には恒例のように発売していたクイーン特集の
臨時増刊号が出たので、この頃は、その増刊号の“伝説のクイーン”と『LIVE KILLERS』の両方を楽しんでいたファンは
私だけではないと思われます。
さて、クイーン初のライヴ・アルバム『LIVE KILLERS』の日本盤を最初に手にした時、
先ず表ジャケットを見て、“おぉ〜!これ、これ”(←コンサートで見た見たという意味)、と興奮し、
またそのジャケットを開いた瞬間も数々のメンバーの写真にしばらく目が釘付けになり、
レコードを取り出したら、これまた綺麗な赤と緑の透き通ったレコード盤で、“すげぇー!”を連発。
レコードだけでこれだけ感激したのは、それまでのクイーンのアルバムでは無かったことでした。
それだけに、途中に聞こえてくる観客が喋ってる言葉も、もちろんMCも全て、丸暗記してしまうほど、かなり聴き込みました。
ただ、クイーンのアルバムでは初めての2枚組のレコードであり、Side One〜Side Fourと4面もあるので、
当然レコードの針も4回落とす作業をやらないといけないわけで、どうしても、「We Will Rock You」〜「You're My Best Friend」まで。
「Now I'm Here」〜「Keep Yourself Alive」まで。 「Don't Stop Me Now」〜「Brighton Rock」まで。
「Bohemian Rhapsody」〜「God Save The Queen」まで、という“区切り”が付いてしまってました。
『LIVE KILLERS』は、当時の英国でのチャートでは最高位3位となり、アメリカのトップ20では16位に入り、
日本のオリコンチャートでも当時の『オペラ座の夜』と同じ9位という結果を残しています。
しかし数年後のインタビューで、ロジャーとジョンが「このアルバムは音質があまり良くない」、「そう、だからミキシングしていてもあんまり楽しくなかった」と答えていたのを読んで、
ちょっとショックを受けました。
なぜなら私は全くそういう事が気にならなかったからです。
当時は来日の公演の興奮を抱いたままの状態であった事が、ある意味、“恋は盲目”みたいになっていたのかもしれません。
でも今現在でも、音質が悪いなどの批評を耳にしても、やっぱり『LIVE KILLERS』での演奏は素晴らしいし、
特にブライアンのギター・ソロなんて絶品だと思います。
それより、時が経つに連れて個人的に感じ始めた不満は『LIVE KILLERS』の「Love Of My Life」でした。
この曲はシングルカットもされて、いつのまにかアルバム・バージョンよりも有名になっていったように感じてしまい、
それがとても口惜しいというか、元々はフレディのピアノ曲である事が忘れ去られていくようで、
嫉妬に似た感情を抱いてしまったのが原因です。
『オペラ座の夜』で聴くこの曲は、フレディの美しいピアノに絡み合うようにブライアンがギターでオーボエやフルート、
チェロのような様々な音色まで響かせていて、ラストはブライアンがハープも演奏しています。
こんなにも美しいピアノ曲なのに、アコギのライヴバージョンばかり評価されてしまうと、
どうしても、アルバムバージョンも忘れないでょ・・という気持ちが嫉妬の炎となってしまうのです。
それとは別に、音や編集に対する不満というのは、正直、ここまで聴き込んでしまった以上、手遅れというか、
今更なところがあります。
それよりも、『LIVE KILLERS』についてジョンが、
“もっとずっといいライヴ・テープがあったのに”と答えていた事の方がすごく気になりました。
そんなテープが存在していたのかと・・。
もしまだそれが存在しているのならば、そしてできる事ならば、
1979年のライヴ音源(この年の11月から開始した英国ザ・クレイジーツアーも含めて)を再編集していただいて、
『LIVE KILLERS 2011』をSHM−CDで聴いてみたいものです。もちろん映像も一緒にネ。
以上、今月はクイーン初のライヴアルバムが発売された月として、1979年を振り返ってみました。
今回はあまりにも記憶が曖昧だったので、
久しぶりに学生時代にやっていた親友との交換ノートを引っ張り出して、昭和54年のノートを探してみました。
←(中学から続いた親友との交換ノートより。
ちょうど『JAZZ』の頃からフレディはタイツからレザースーツに変わりますが、足元だけはしばらくバレエシューズのままでした。)
そしたら、ちょうど私が持ってるノートは昭和54年の5月の終わりから6月のしかなくて、
来日公演の時の4月分は親友が持っているので調べられませんでした。
だけど昭和54年の5月〜6月というと、32年前のちょうど今頃なんだなと思い、ページを捲ってみたら・・・
高3ということもあり、進路や将来について相当悩んでいた事が判明。
それでお互いに励まし合う内容がびっしり書いてありました。
そういう状況もあって、『LIVE KILLERS』については、購入直後も、今日は赤盤のロジャーだけ、とか、
緑盤のブライアンだけ聴いた、と書かれてあり、どうやらこの頃は勉強の合間を見つけてはレコードの片面だけを
日々少しずつ楽しんでいたようです。
そして6月の終わり頃のページには、こう書かれてありました・・・
「来月はブライアンとロジャーの誕生日ね。ブライアンは32歳でロジャーは30歳になるよ。ひょえ〜!」。
17〜8歳の少女からしたら、“ひょえ〜”は当然かもしれませんね。
でもこの年以降、メンバーの誕生日は時折思い出しても年齢は気にならなくなっていきました。
updated:2011/ 6.01