K&K QUEEN FAN CLUB / K&K VIRGIN QUEEN
クイーン結成40周年記念企画!掲示板入り口特集「今月は何の日?」

晩秋と初冬が交差する11月になりました。
この時期、「菊」の花が見ごろを迎えますね。日本では「菊」は、よくお供えに使われますが、 同時にお祝い事でも使われます。「菊」の花は婚葬祭両方に使われるだけに、位の高い花であるという事で、 皇室の紋章でもあり、日本の「国花」となっています。 また、漢名の「菊」は、“究極”、“最終”を意味し、一年の一番終わりに咲くことから 名づけられたと言われています。
ということで、今月の特集は、クイーンが結成20周年を迎えた祝いの年であると同時に、 11月24日、フレディの死去により、“クイーンの終わり”を告げる年にもなった1991年(平成3年)の特集です。


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日本で元号が「平成」に変わり、昭和の時代が幕を引くのを待っていたかのように世界情勢は激変します。
1990年、ソ連が一党独裁を放棄し東西ドイツが統一。 その後、ソ連邦崩壊により冷戦はアメリカの勝利をもって終結しましたが、 その冷戦終結と共に、日本経済の繁栄はガラガラと崩れ落ちてしまいます。
1991年(平成3年)は、そのバブル崩壊直後にあたり、日本中が大不況の真っ只中でした。
一方の英国では、11年間の英国統治を維持したマーガレット・サッチャー首相が1990年11月に辞意を表明。 その一週間後にジョン・メージャーが英国首相に就任します。 メージャーはサッチャーの構造改革を引き継いで公共施設の建設や運営を民間に委ねるという政策を打ち出し、 後にその方法は構造改革の手法として世界の国々でも実施されるようになります。



1991年1月
14日、英国で6分30秒にも及ぶシングル「INNUENDO」が発売されました。
そのシングルは発売後、1週間でいきなり10万枚のセールスを記録し、結成20周年を祝うかのように、 シングル・チャート1位に輝きます。
一方、昨年11月に正式契約をしたばかりのアメリカのハリウッド・レコードからは、 「INNUENDO」では曲があまりにも長すぎるという理由で、最初のシングルに「Head Long」を要請。 それをバンド側が承諾して、17日にリリースされましたが、結果はチャート入りしませんでした。
しかし、『INNUENDO』のアルバムが発売されると、日本では(シングルと共に30日に先行発売)オリコン・アルバム・チャートで 17位に入り、翌月(2月5日)に発売されたアメリカでも、 ビルボード誌のトップ200で30位という高成績を上げます。 もちろん英国ではシングル盤と同様、驚異のセールスを上げて、全英アルバム・チャートでも1位を獲得しています。
おそらく、古くからのファンの多くは、このアルバムを聴いて、“クイーンが本領を発揮した!”と驚き、 誰もが、“王者クイーンの復活”を確信したのではないでしょうか。


1991年2月
14日、クイーンは次のシングル「I'm Going Slightly Mad」のプロモーション・ビデオ撮影のため、 ロンドンにある“ライムハウス・スタジオ”に入ります。
このビデオの絵コンテはフレディが描いたそうですが、メンバー4人ともそれぞれの個性が出ていますし、 その構成や動きは少し怖いグリム童話を読んでいるような感覚になります。
余談ですが、このビデオで見られるブライアンのペンギンルックのあの大きな口ばしは、 ファースト・アルバムの裏ジャケ(左上のブライアンの写真)に見られるペンギンルックの口ばしの作りとよく似ています。
ついでに言うと、実は昨年、それを参考にしながら、黄色い画用紙を用いて実際にペンギンの口ばしを作ってみました。(^^;
でも、上下の口ばしが重なる両端の部分が非常に難しくて、ブライアンと同じ仕上がりにはなりませんでしたが・・・
話しを戻します。
この月の末に停戦となった湾岸戦争ですが、 この時の軍のラジオ局でリクエストが最も多かったのが「Another One Bites The Dust」で、戦争終結後にはそれが 「We Are The Champions」に代わったそうです。クイーンファンとしてはちょっと複雑な思いがしましたが、 時を同じくして、「INNUENDO」のシングルが、なんと南アフリカでチャート1位を記録していました。こちらは素直に嬉しく思います。


1991年3月
4日に英国で「I'm Going Slightly Mad」のシングルが発売されます。カップリングは「The Hit Man」。
しかしそのシングル・チャートの最高位は22位でした。英国のクイーンファンは正直だなと思います。いろんな意味で・・。
さて、この月にアメリカでは、ハリウッドレコードから初のリマスタリングCDが発売されました。 それには何曲かのボーナス・トラックやリミックス・バージョンが付けられていて、 当時の私のお気に入りは、「Keep Yourself Alive」の“Long Lost Re-take”でしたが、 いくつか、“Edit Version”と記された曲があり、その中で、今もファンの間では、 すこぶる評判が悪いと思われるのが、「It's Late」のEdit Versionではないでしょうか? ラジオ向けのプロモーション重視のハリウッドレコードらしいというか、 ラジオでオンエアされやすくしたかったのは分かりますが、かなり無理がある編集です。
一方、この頃ロジャーはソロ活動を精力的に行なっており、クロスの3枚目のアルバム製作に取り掛かかります。 また、この月の初め(8日)には、デビーとの長男、ルーファス・タイガーが誕生しています。


1991年5月
上旬、クイーンは早くも次(となるはずだった)アルバムの作業に入るため、スイスに向かいます。 と言っても実際は、既にご存知のように、フレディに残された時間が短いことから、ブライアン、ロジャー、ジョンの手持ちの曲を 全て出してもらいながら、ボーカルトラックのレコーディングをしていたわけですが、 凄まじいほどの集中力と想像を遥かに超える強い精神力がなければ、普通は立ち向かえない状態だったと思います。
さて、この月の終わり頃、ブライアン以外の3人は「These Are Days Of Our Lives」のビデオ撮影を終わらせていましたが、 ブライアンだけはその頃、クイーンと自分のソロアルバムの宣伝活動のために、アメリカとカナダへ向かいました。 そのツアーは、“ラジオ・ツアー”と名付けられ、ブライアンは自分のレッド・スペシャルを ラジオ用のコンソールに接続させて演奏するというスタイルをとってプロモーションを展開。
当初、ブライアンは北米でのクイーンの知名度が年々下降している事を心配していましたが、 ラジオ局まで会いにくるファンも多く、逆に熱心なファンの反応に勇気をもらったそうです。
ということで、「These Are Days Of Our Lives」のビデオ撮影が完了したのは、ブライアンのその帰国後でした。
ちなみに、「These Are Days Of Our Lives」は、アメリカでこの年のフレディの誕生日である、 9月5日にシングル発売されています。(がしかし、チャート入りせず。)
また13日には英国で、第3弾シングル「Head Long」が発売されました。 これの12インチ盤の方は、ボーナス・トラックに「Mad The Swain」が入れられていて、 この曲は1972年にレコーディングされたもので、アルバム未収録曲だっただけに、 「Head Long」はシングル・チャート14位まで上がりました。


1991年10月
28日、バンド結成20周年として企画されたベスト盤『GREATEST HITS II 』が英国で発売されました。
また、ビデオ集『GREATEST FLIX II 』も同時発売されています。 日本では11月に入ってから発売されましたが、そのライナーノーツの著者は、 “フレディのお嫁さんになる!”というセリフが有名だった今泉恵子さんで、 しかもそれがフレディ生前に書かれたものだっただけに、そのライナーノーツを読むだけでも胸が詰まる思いでした。
ところで、その後、『GREATEST HITS I&II 』という“セットもの”もEMIから発売されましたが、 2011年の今年、『GREATEST HITS I&II&III 』というトリプルセットで発売されましたね。 名称“プラチナム・コレクション”だそうで、これは“プラチナディスク集”という意味でしょうか? 確かに英国での売り上げ記録で見るとその名称に頷けますが、 日本での売り上げ記録を見てみると、『GREATEST HITS I 』は100万枚近く。 『GREATEST HITS II 』はその半分以下。『GREATEST HITS III 』はまたその半分以下であり、 日本でのプラチナディスク該当基準から言うと、『GREATEST HITS III 』だけは格下のゴールドディスクになります(笑)。 ま、そのトリプルセット販売でプラチナディスクを狙えるのかもしれませんが、ミニチュアのレスペがおまけというのも、ちょっとズルいかな〜。

っと、話を戻します。少し日にちが前後してしまいますが、
14日、英国で40枚目のシングルとなる「The Show Must Go On」が発売されました。
結成20年のお祝いと共に、王者クイーンの復活を誰もが信じて大いに期待したであろうアルバム『INNUENDO』からの 最後のシングルとなった曲ですが、英国のシングルチャートは18位でした。
でもおそらくフレディはその結果を残念とか少しも気にしなかったんじゃないかと思います。 なぜなら、「同情でレコードを買ってもらうなんて、まっぴらごめんだ!」と言っていたフレディの意思が、 最後のシングルまで通ったわけですから。



1991年11月
23日、ロンドンのケンジントンにあるフレディの自宅門前に報道記者が集められ、 クイーンの広報担当者によって、エイズに感染している事を明らかにするフレディの声明文が読み上げられました。
24日朝の新聞にはその声明文とともにフレディの病名が大きく取り立たされましたが、 その日の夜、エイズから併発した気管支肺炎により、フレディがこの世を去りました。
27日
水曜日の早朝、ウエスト・ロンドン火葬場でフレディの葬儀が行なわれました。 そして会場からフレディの棺を優しく送り出したのは、 モンセラート・カバリエが歌う、イル・トロバトーレの、“D'amor sulll' ali rosee / 恋は薔薇色の翼に乗って” だったそうです。

以上、今月は1991年(平成3年)の特集でした。






フレディが亡くなった後、クイーンのアルバムやシングルやビデオなどを 買い集め始めたファンって、少なくなかったと思うのですが・・・。自分もそうでした。 特にこれまでのレコードをCDで買いなおすのは「いつでもいいや」と、のんぴり構えていました、 でもそれが180度変わって「この際なんでもいい!」って感じでクイーンに関するものを見つけたら全部買ってました。
で、それとは別に、フレディが亡くなったその翌日に、ブライアンのソロ・アルバムからの先行シングル 「Driven By You」が英国で発売されました。
でもブライアンは、以前からこの時期の発売には気が進まなかったそうです。 そりゃそうでしょうね?・・・
それで、ジム・ビーチに発売を延期すべきかどうかを相談したそうなんですが、 ジムが生前のフレディにそれを告げたら、フレディは「絶対発売しろよ!」と伝言を残したそうです。
それで結局ブライアンは、フレディの伝言通りというか、 予定通りシングルを発売。そして予想通りというか、そのシングルはチャート6位を記録しました。
それって、フレディ追悼の波に乗った、と言うとちょっと語弊がありますが、 タイミングとして全く関連していないとは言い切れませんよね?
もし自分がブライアンの立場だったら、おそらく、発売延期を選んだかもしれません・・・
だけど自分がフレディの立場だったら、きっと「なんで延期なんかしたんだよ!」って怒ると思う。(^^;
うーん、難しいです。
皆さんがこの時のブライアンとフレディのそれぞれの立場だったら、どうしますか?



さて、今年2011年2月から、クイーン結成40周年を記念して毎月特集してきた「今月は何の日?」ですが、 とうとう来月が最終回になります。・・・「え〜〜っ!」←ひとりで言ってます。(笑)
来月は、特集企画のラストをクイーンの慶事で締めくくります。



updated:2011/ 11.01